⌘第6話 過去のミックとフィラン

 もう十年も前のこと。

 日曜の、市に下りてきたときだった。


 母がミックの手を離し、市の買い物の荷物をあらためた。ミックがきょとんと母を見る。母は卵を買い忘れたと言った。すぐに戻ってくるから、ここでいい子にして待っていらっしゃい。


 ミックはうんと頷いて、川原に腰掛けた。

 春の、よく晴れたきれいな空だった。風は強すぎることもなく、穏やかにふんわりと吹いてミックの耳を鳴らす。草やぶがさわさわ音を奏でる。ミックは川のせせらぎをじっと見つめてから、ふっと目を閉じる。


 そのままぼうっとしていたミックの耳を、聞き慣れない声が叩いた。

「おおい」

 ミックはびっくりして面を上げた。きょろきょろと辺りを見回すが、誰の姿も見えない。

「こっちこっち」

 川原の木立の中で、一人の少年が木登りをしていた。ミックが彼を見つけると、少年は梢から一気に飛び降り、軽い足取りでこちらに駆けてきた。大きな体つきで、碧い瞳のきりっとした顔立ちで、大人びて見える少年だった。


「だあれ?」

「フィラン。お前は?」

「ミック」

「よし、ミック、遊ぼうぜ」


 市から帰ってきた母が見つけたのは、見知らぬ子と遊ぶミックの姿だった。

 母はあらあらと言うと、市の買い物の包みを解いて、中から甘い砂糖の塗られたパンを取り出して二人に渡してくれた。ミックは大喜びでそれを食べた。出会ったばかりのフィランは驚いているようだったが、おずおずとそれを受け取った。


 平日も休日ももっぱら神殿の中で修行に励んでいたミックにとって、神殿住み込みの神依士かむえしの子ども以外の友達は初めてだった。このことを父に話したらよかったねと言われたし、他の神依士見習いに話したら羨ましがられた。フィランはミックと気が合ったし、自分より年上で、ミックの知らない下町のことを良く知っていて、活発で活動的なフィランはミックの目にはかっこよく映った。




 以来、ミックは日曜の市を心待ちにするようになった。母と一緒に買い物を終えて川原に走ると、フィランはいつも先に着いて待っていた。会うたびにミックはフィランと一緒に泥だらけになって遊んだ。夏になって暑くなると、川に飛び込んだりもした。遊び疲れた二人は、びしょぬれの衣服もそのままに、ごろんと川辺に寝転んだ。


「ここに来ていること、秘密なんだ」


「ふうん、なんで」


「父上……父さんは、俺にだけ厳しいんだよ」


 フィランは遠くを見ながら、あまり口を動かさずに言った。彼の銀の短髪が風になびくのを見ながら、ミックはその言葉を聞く。


「なあミック、お前はどの辺に住んでいるんだ?」


「東の丘の上。今度一緒に来る? ぼくの家には誰でも来ていいんだよ」


「ああ、行ってみたいけど……やめとくよ」


「そう。じゃあぼくがフィランの家に行こうかな。どこに住んでいるの?」


「俺んちだって? 馬鹿言うな、絶対だめだ」


 フィランは目を見開いて頭を振った。大声で、何度もだめだと言う剣幕にびっくりしたミックは、それ以上何も言うことができなくなってしまった。




 季節は流れた。秋を過ぎて冬が来ても、二人の関係は続いた。涼しくなると二人は駆けっこをしたし、雪が降れば、雪だるまを作ったり雪合戦をしたりした。母は脇に座って、いつも楽しそうに二人の様子を眺めていた。



 二人が出会って数年が過ぎたころ。ある日ユス教の信者が酔った勢いでルクス教を罵り、一人のルクス教の女性を殺してしまった。


 国王が国教をルクス教からユス教に変えたことで対立していた両宗教の関係は、それで一気に悪化した。


 ルクス教の神依士とその家族は外を出歩けないようになってしまい、名前しか知らない遊び友達との縁はそこでぷっつりと切れた。




 寂しいと思ったのは最初の日曜だけだった。争いは年々激化し、最近はお互いに武装するまでになった。


 彼のことなど、今の今まで忘れていた。目の前のフィランの揺らぐ視線が、段々ミックの眉間に定まってくる。

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