⌘第2話 戦ってはならぬ 殺してはならぬ
ルクス教の経典にこんな文言がある。
『日曜には昼餐会を開き、互いに親交を深め、分かち合うこと』
それが毎週の昼餐会の全てだった。
ミックたちが今準備しているように神殿で行われることが多いが、遠方の者や病を抱えた者などは、誰かの家に集まってやることもある。なぜ日曜の昼なのかといえば、日曜の朝に市が立つから、ただそれだけの話だ。
信者たちは、正午の少し手前にやって来た。
めいめいが両手に馳走を抱えている。
ミックはそれぞれに挨拶をし、労をねぎらい、ルクスさまへの祈りを捧げた彼らを昼餐会の席へと案内して回った。
「ミックももう一人前の
濃い紺色に数本の白い線が入った質素な見習いの法衣に身を包んだミックは、誰かがそう言ったのに対し、口元をほんの少し緩めて応えただけだった。
数年前だったら飛び跳ねて喜んだだろうその言葉も、今の彼には身に余る賛辞だった。
ミックは神依士の息子としてこの世に生を受けた。
子守唄代わりに神の御言葉を聞いてきた彼にとって、ルクス教の考え方は、毎朝日が昇りそして沈んでいくのと同じくらい当たり前の存在だった。
乳飲み子のときから神殿で過ごしてきたミックは、外の世界をほとんど知らない。
彼が小さかった頃は外の公園や川原で友達と遊んだこともあったけれど、争いが激化してきた現在は、買い物に出かけることすらままならなかった。
競うな、争うな、どんな者にも愛をもって接せよ。
ミックの好きなルクス教の教義の一部だが、今のこの世の中で実践するのはひどく難しかった。
国王の代替わりと共に城下町にやって来たユス教という名の教団の台頭。
はるか昔からこの国に根付いていたルクスさまの存在に異を唱え、ユス教信者である国王の力を笠に着てルクス教を弾圧し始めたのだ。
神依士たちが非暴力を訴え、戦わないことを信者たちに説いたのは、最初だけのことだった。今ではこの神殿に、ミックの父のほかには神依士が一人も残っていない。
「みなさん、よくご無事で。よく来てくれました。感謝いたします」
父の発声で昼餐会が始まった。
だが昔のように、果実酒やジュースで乾杯することはもうない。
子どもが生まれただの結婚しただのといった幸せなニュースを報告し合う談笑もない。信者たちは疲れた顔で、隣人の持ってきた馳走と呼ぶにはだいぶみすぼらしい食事を口に運ぶ。
昼餐会だけは見栄を張ろうとなけなしの金をはたいて準備してくるようだったが、持ち寄られる食事は時を経るにつれ華やかさを失い、貧相になっていった。
それを見れば、人々の暮らしがどれほどひどいのかは手に取るように分かった。天候不順による不作とも相まって、皆が皆、日に日に痩せこけていく。そしてユス教に対する恨みつらみは日に日に増していく。
「クルタイが殺された。西の広場にいたところを、あいつらに捕まったんだ」
「なんで平日にそんなところに行ったんだ。あそこにはユス教徒しか住んでいないじゃないか」
「セーデさんのところは、一家でやられていた。武器を集めているのが見つかって」
「奥さんと娘まで一緒に……ひどいことだ」
「俺たちが何をしたっていうんだ? 最初に手にかけたのは、向こうなのに」
耳に入る知らせは聞くに堪えないものばかりだ。
戦争で亡くなった人は、神依士が弔いに行けない代わりに、この神殿でまとめて供養を行うことになっている。だから、誰が命を落としたのか、ルクスさまに仕えるミックは聞いていなければならない。
一週間ぶりに信者たちに会えて嬉しく思う反面、悪い知らせは次々と、ミックの心に重たいしこりを落としていった。
戦争で収入のないミックたちにとって、週一の昼餐会は、貴重な食糧源である。信者たちはそれも考えて食事を持ってきてくれる。来週までもつ米や野菜と、明日明後日には食べ切らないといけない肉や魚とを分け、手早く包んでいった。
ミックはちらりと外を見た。
昼餐会のおこぼれをもらえないかと、何人もの孤児が門の外に集まってきているのが分かる。
ミックは彼らに、心の中で謝った。信者たちが持ってきてくれた分は、節約したとしても、ミックと父が食べていくだけでやっとだった。
「神依士さん、武器を持て、持ってくれ」
父はその言葉を静かに聞いていた。頷きもせず、首を振りもせず。
城下の神殿の多くが、昼餐会を取りやめ、人を集めなくなったと聞く。
気高いルクス像が飾られ、信者たちにとって心の拠り所である神殿は、ユス教徒たちにとっては格好の的だったからだ。神依士たちが離れ、守る者のいなくなった神殿がどうなったかは、想像に難くない。
反対に、武器を手に取り、信者と共に立て籠もった神殿もあると聞いた。
その結末は、少なくともユス教徒たちに勝ったという報告は、まだ一つも届いていない。
ミックと父は、そのどちらとも違った。
武器を持たず、法衣を脱がず、休戦の日曜日にその場所を開放するために、たった二人で神殿に残っている。
「神依士さん」
信者たちはなおも説得しようとした。
「ここに残ってくれていることには感謝している。でも、神殿は狙われている。いつ封鎖が破られるかも分からない。頼むから武器を持ってくれ。戦えるだけの備えをしておいてくれ。命を守るために!」
父は優しい面持ちでその言葉を聞きつつも、やはり頷くことはなかった。
父のそういった姿を、ミックは誇らしく思っていた。
父は、ルクスさまの本当の教えを破ることがなかったから。
戦ってはならぬ。人を傷つけた者は同じ傷をその身に負うと心得よ。
争ってはならぬ。憎しみはその身と心を燃やすと心得よ。
殺してはならぬ。人の道を逸れた者にルクスさまの救いはないと心得よ。
多くのルクス教徒にとって、神の大事な教えの前には、次第に「ルクス教徒に対しては」という言葉が付け加えられるようになった。
ルクス教徒と戦ってはならぬ。
ルクス教徒と争ってはならぬ。
ルクス教徒を殺してはならぬ。相手がユス教徒であればその限りではない。
ミックはそうした考え方に違和感を覚えつつも、それを否定するだけの言葉も経験ももたなかった。
神依士である父が、昔みたいにおやめなさいと言うことも、もうなかった。
死者たちの弔いの儀も終わり、皆が帰路についたとき、ミックは一人一人に「どうかご無事で」と声を掛けていた。
言葉を受け取って頷く者、彼の背中を叩いて檄を送ってくれる者、今生の別れになるかもしれないと彼を抱きしめていく者、様々だったが、ある一人は、父の見ていないところでミックにこうささやいた。
「ユス教はあまり大体的に公言していないがね、国王の病はだいぶ悪化している。ユス教はあの国王に守られているだけだから、国王が死にさえすれば、後はなし崩しに倒れるよ」
「それ、本当?」
ミックの瞳が心なしか輝いた。
「争いが終わるのさ。ユス教徒は皆国から出て行くことになる。弟君が玉座に就きさえすればね」
信者たちがいなくなると、広い神堂はがらんとして寂しくなった。
外から入って来られないように、持ち手には何重にも鎖を巻き付け、扉の前には重い銅像を動かして置いた。椅子や机を乱雑に組み合わせて積み上げた。
そうして朝神堂に足を踏み入れたときと同じような状態にし、神殿を封鎖したミックが振り返ると、父がルクスさまの足下に跪いているのが目に入った。
「お父さん、日曜が終わるよ。早く奥の部屋に戻らないと」
ミックが声を掛けても、父は跪いたままだった。
近くに寄って父の顔を覗き込んだミックは、次に掛けようと思っていた言葉を失った。父の張り詰めた横顔に、一粒の涙が伝うのが目に入ったからだ。
「ミック……すまない」
彼は恐る恐る聞き返した。
「すまないって、何が?」
「私にはもう、ルクスさまの法を行き届かせる力がない……。それなのに、お前をこの神殿に引き留めてしまっている」
父につられて、ミックも涙があふれてくるのを感じた。
「お父さんが悪いわけない。お父さんは、他の皆とは違って、ずっとルクスさまの教えを守っているじゃないか。ルクスさまの法が行き届かないのは、決してお父さんのせいじゃない……」
「実際に血を流し、傷を負っているのは私たちではないんだ、ミック。武器を持たずに安穏と暮らしている私たちを恨む者もいる」
「それが人としての正しい生き方なのに?」
「私はお前のことを誇りに思っているが、人としての正しさが変わり始めているんだ、ミック」
「ルクスさまがそうおっしゃるの?」
二人の頭上にそびえ立つルクスさま。
見ている者に優しいまなざしを送るルクスさま。
両の翼を大きく広げる様は、神を崇める者に絶対的な力と安心感をもたらす。
そのルクスさまが口を開いてミックに教えを授けてくれることはない。
修行をたくさん積んで、ルクスさまの教えを完璧に体現したときに、初めて神と対話できると言われている。
神殿の神依士の中で一番偉い存在の
ミックは常々問い掛けている。
争いが終わる方法はないか。
皆が安心して暮らせる世が来るにはどうすればいいか。
だが、ミックの心の中に答えは見つからなかった。だから、もっと修行して答えを見つけなければと思っていた。
世の正しさが変わっていったとしても、自分自身は清く正しく生きるしかない。
ルクスさまの教えに沿って、愛と慈しみの中に救いを見つけるしかない。
ミックはそう信じていた。
信じるしか、なかった。
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