正義の門

朝斗 真名

第一幕 我こそが法だ

第一章 暁と終焉

⌘第1話 神依士見習いと孤児のミナ

 両手を伸ばしてやっと届く高さに、所狭しと机や椅子が積まれている。

 ミックは父と一緒にそれをそうっと山からどけて、下ろす。


 まずは一つ目。

 大人の男が横並びで五人座れる長椅子は、十五歳の少年一人の腕力で持ち運ぶには難儀する重さだった。

 二つ目、三つ目。

 下ろしては決められた位置に運び、また次のを下ろしに行く。十個目をやった後も、まだ終わりが見えなかった。


 時刻としては朝日が昇ってもう数刻過ぎている。

 だが、ミックと父のいる神堂はまだ薄暗かった。

 石が積まれ石膏で固められた壁には、かつてはガラス窓だった四角い穴がいくつも空いていて、窓枠に木や鉄の板が何重にも打ち付けられている。その窓から中に入ることはもちろん、中から外の様子を伺い知ることもできないくらい、暗く閉ざされた空間だった。手入れを怠っているせいですっかり曇った天窓が、ぼんやりとした朝日を広間に届けるのみだ。


 ひいふうみいよおいつむうなな。ここに来るのは一週間ぶりだ。


 ここは神殿の中の、神堂と呼ばれる、神に祈るための場所。平時には三百にも上る人数の信者たちが集い、賑やかな活気があったものだ。現在は、ミックと父が作業に勤しむ音が空虚に響くばかりである。

 木の長椅子が軋みながら石畳の床を踏み締める音は、ミックのため息のそれをかき消して重く地面を震わせた。


 やっと顔を見せた扉の取っ手には、鎖がきつく巻き付けられている。

 それをほどいてようやく、鍵を差し込んで扉を押し開くと、ふわっと明るい空気がミックを出迎えた。


 ひいふうみいよおいつむうなな。ようやく来た日曜日、休戦の日。


 神堂と共に自分の肺の空気も入れ替えたミックは、ふうと息をついて袖をまくった。

 日曜日は神殿の外から大勢のルクス教徒が集まって来る日だ。

 宗教的儀式である昼餐会が開かれる日。

 邪教であるユス教との対立は日に日に増してミックの生活を脅かしていたけれど、仲間に会える今日は、希望のない日々に差す一筋の光のようだった。


 ミックは神と崇め奉るルクス像の下に跪く。


 ルクスさま。

 真心からの信仰を捧げます。

 今日も私たちを守り、お導きください。


 祈りの言葉は普段と同じだ。

 だが休戦の日曜日、ルクスさまの前で祈るときは、いつも以上の喜びと安心感が胸の中に広がっていくのを感じる。


「遅くなってごめん、お父さん。今準備手伝うから」


 ミックは父に倣って箒を取り、一週間分の埃を掃いて集めた。その後は、長椅子と床を濡らした布で拭き上げていく。


 ミックの父は、ルクスさまに仕え、祈り、冠婚葬祭を執り行い、神の御言葉を伝える、神依士かむえしと呼ばれる神職である。群青の夜空にたくさんの星を散りばめたような煌びやかな父の法衣は、見習いであるミックの憧れであった。

 昔はその衣を着る者は大勢いた……みんなで分担し、あっという間に終わっていた昼餐会の準備作業も、ミックと父の二人だけでは恐ろしいほど時間がかかる。


 十時を少し過ぎた頃、開け放たれた扉の向こうで、草を踏む音が聞こえた。昼餐会の時間にはまだ早いが、この時間にここに現れる者をミックも父も知っている。


「ミナ」


 神堂の奥から父が名前を呼ぶと、娘はびくっと体を震わせて、か細い声で神の名を呼んだ。


「ルクスさまにお祈りを捧げに」


 娘といえるほどでもない。十歳かそこらの孤児の少女だ。ミナはよたよたと歩いてきた。

 一本の針みたいにひょろっとした体は真っ黒に垢で汚れているし、その金の髪もふけだらけでぼさぼさだ。とてもルクスさまに顔向けできるなりとは思えない。

 ミナが神殿に来るようになった頃に風呂を沸かしてやったこともあったが、「お兄ちゃんが知ったら大変なの」と言って、身綺麗にすることを頑なに拒んだ。昼餐会にも顔を出そうとしなかった。

 その語るところをつなげて考えると、ミナの兄はルクス教を毛嫌いしていて、ミナの信仰心を疎んじているらしい。


 けれどミナは兄の目を盗んで、毎週必ず祈りを捧げに来る。

 ミナは文字こそ読めなかったが、頭はかなりよかった。ミックや他の神依士たちの唱える祈りを聞いて、一語一句暗記してしまったほどだ。

 ミックはそんなミナのことが素直に好きだった。ルクスさまの教義を真っ直ぐに実践しているように思えたからだ。


「ミナ、おはよう」


 ミックが声をかけると、弾かれたようにミナは振り向き、口をもごもごさせて答えた。知り合ってもう随分になるのに、ミナはいくら経ってもミックと馴れ合おうとしない。その傾向は年々増していくかのようだった。


 ……お兄ちゃん、分かってくれないの。


 ミナはよくそう言った。そう言っては泣いた。

 ルクスさまの前で、金色の瞳を潤ませてはぽたぽたと涙を流した。

 彼女の悲しみはミックの胸に突き刺さり、何もしてやれない情けなさがまた彼を苦しめた。


 愛せ、そして理解しろ。


 何も、ミナが好んでこうしているわけではない。ミナの様子を見れば、神殿を降りた下町の生活環境がどれほどのものか、手に取るように分かった。それが原因なのだと、自分にも言い聞かせた。

 ミナは先ほど彼がしていたように、ルクスさまの足下に跪き、祈りの文句を唱え始める。みるみるうちに、彼女の体の震えが収まっていく。


「ありがとうございます」


 ミナが細い声で礼を言う。胸がひゅうひゅう鳴っている。はっきり聞いたわけではないが、なんらかの持病を抱えているのではないかとミックは思う。


 ミナは回れ右をすると、ミックと父に順番に礼をして、たっと駆け出した。

 大急ぎで扉を抜け、坂を下りて下町へと駆けてゆく。


 それが胸の病気にはよく響かないだろうことは簡単に想像できる。

 それでもそんなに急いで行くのには何か訳があることも分かった。


 それがミナの発する兄という言葉に集約することも、また予想がついた。

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