雨が上がれば

田村瑠奈

☂️

 もし雨が全部サイダーだったら、この気分も少しは透明になったのだろうか。


 そんな妄想を頭の浅いところで水彩絵のように淡く描いてみる。

 けれど、現実の世界はそんな甘くて爽やかにはいかないらしい。

 どんよりとした雲のせいで、いつもより低い空から落ちる雫は、止まる気配を見せないし、雫が屋根に散る音は鼓膜についてうるさくて仕方がない。

 放課後の教室には私ともう1人、隣の席の男子がいるだけで、他には虫の一匹すらいない。その沈黙が余計に雨音の騒がしさを引き立てるので、私は寝るのを諦めた。


 朝出かける時雨が降っていなかったとはいえ、この季節に傘を持ち歩かない馬鹿ではない。折りたたみではなくきちんとした大きさの傘を朝から手に下げて学校まで来た。その判断は正しかったみたいだ。

 学校の最寄駅である泉駅までは徒歩10分程度。泉駅は俗に言う無人駅で屋根がない。田舎の、しかも地方線は1時間に一本電車が来ればいい方で、授業が終わる4時以降の電車は4時57分が最初である。変わり者だとよく言われる私といっても、この天気の中屋根のない駅で50分そこら電車を待ち続ける無鉄砲さを持ち合わせてはいない。

 そのため授業が終わってから40分程度こうして教室で時間を潰しているわけだ。しかし友人は部活に消えてしまい、話す相手がいない。だからといってひまつぶしに、と勉強に手を出すほど出来た学生でもない。何か本でも持ってくればよかったと思う。


「やまないなぁ」

 窓の外を眺めながら隣の席の彼が誰ともなしに呟いた。

 重たそうな前髪とサイズの大きなメガネのせいで顔の大半がはっきりとしないこの男子の名前は確か大野くんだったはずだ。クラスの男子どころか女子の名前もあやふやな私がなぜそれを知っているかといえば、単に好きな芸能人と名前が同じだったからだ。因みに下の名前は知らない。

 彼の独り言に釣られるように、濡れた校庭に目を向けると、さっきまで二つだった水溜りが大きな一つの池に変わっていた。雨は止むどころか激しくなっているらしい。

 欠伸を一つして、時計を見れば針が8をちょうど指すところだった。軽く伸びをしてから、すでにまとめておいた荷物を手に教室をでる。悪い意味で歴史を感じさせる校舎の廊下は湿気のせいで滑りやすくなっている。なんとかして欲しいものである。学校の改修ってどれくらいお金がかかるのだろうかとぼんやり考えながら、黒のローファーに右足を突っ込んで傘立てに目を移す。そして、しばし呆然とした。

 傘立てに私の傘がなかった。深い青に鈴蘭の模様の入った、お気に入りの傘がない。確かに持ってきたはずなのに。

 傘立てには真っ黒な傘が一本、真っ直ぐに立っているだけだった。きっとこれは、さっきの男子のものだろう。ここには、傘は一本しかない。つまり誰が間違えて私の傘と自分の傘を取り違えたわけではなさそうだ。もしそうなら此処には傘が二本あるはずなのだから。

 まさかとは思うが、誰かに盗まれたのか。

 雨の音がひどくなっているように感じる。靴を履いたまま立ち尽くしていると、向こうから足音がした。先ほどまで教室にいた彼かもしれない。

 なんとなく、今の状況を他人に見られるのは嫌だった。徒歩で10分なら走れば5分で行けるだろうか。足は遅いほうではない。

私は雨の中に飛び出した。




「まず一言褒めてあげるよ。よく風邪をひきませんでしたね。鈴谷綾香すずたにあやかとかいてバカと読むだけあるよ、バカは風邪をひかないと言うからね」

 梅雨時期にしては珍しく晴れた天気の、昼休み、早々に弁当を食べ終えてブドウのグミを噛みながら友人の美月が鼻で笑う。

 この口の悪い美月みつきと、私と、もう一人の友人の夏帆かほはなんの偶然なのか去年もクラスが一緒だった。性格はお互いバラバラだけれどなんだかんだ言ってこうして一緒に弁当を食べる仲ではある。

「酷いこと言わないでよ。私、今お気に入りの傘をなくして落ち込んでるんだから。傷口に塩を塗るような真似、しないでよね」

 ブランド物の、高価な傘だったわけではない。でも、お気に入りのものだった。罪悪感にも似た喪失感は胸の中で嫌な方に形に膨らんだ。

「それにしても綾香、走るんじゃなくて誰かに傘に入れて貰えばよかったのに。駅と同じ方面に帰る人、他にいたんじゃないの?」

 居たかもしれないけれど、いちいち他人の家の方面を把握しているわけではない。そう返すと、それはそうか、と納得された。

「え、私今日綾香の傘見たよー。ふつうに傘立てで」

 さっきまで弁当に巧みに隠された人参を取り除くのに夢中になっていた夏帆がふとこぼす。キョトン、とした顔をしていた。

 嘘、とこぼして立ち上がり弾かれるように靴箱まで駆ける。胃の中に落としたばかりのポテトサラダが口から出そうになった。肩で荒れた呼吸をしながら、傘立てに視線を向けた。

 傘は当たり前のような、澄ました顔をしてピンと傘立ての中に立っていた。 息を切らしている私を『何してるの』とばかりに見つめていた。胸の中で膨らんでいた喪失感の風船はパチンと弾けて、代わりに頭の中に霧が立ち込めた。わけがわからない。

 狐に包まれたような感覚でフラフラと戻ってきた私に驚いたのか、2人は顔を見合わせた。

「まあ、めでたしめでたし、じゃん」

 美月は大袈裟なくらいニッコリ笑った。

「ほら、私の言った通り、あったでしょ?」

 夏帆は得意げに胸を張る。二人はこれで話は解決、とばかりに晴れた顔をしているけれど私はそんなわけにはいかなかった。


 なんかスッキリしない。妙にイライラする。


この話はもうおしまいにしよう、と空になったグミの袋を丸めた美月が、話の種を夏帆に投げた。

「そういや、あんた今度は風と共に去りぬのスカーレットやるんだって?主役ってすごいじゃん」

 夏帆は私たちの前でこそは間の抜けた性格だけど、実際は演劇部の部長でそこの界隈ではなかなかの有名人らしい。

 今年の5月、演劇部は文化祭でウエストサイドストーリーを披露したのだが、彼女は愛くるしいヒロイン、マリアを熱演した。元々は友人という義理と、どうせ高校生の文化祭の劇だ、という軽い気持ちで観に行った劇だった。しかし、仕草の中に幼さを滲ませながらも、激しい恋に身を焦がす少女に見事変身した夏帆に驚愕した。未だにあのマリアが目の前にいる彼女とは信じられない。

「いやー、練習で絶賛しごかれ中だよ。心が折れそう」

 困り顔で笑う夏帆が、あの気の強い美女に化けるのが今から楽しみだ。

「てか、美月だって、全国大会出場決まったんだって?流石だね!」

剣道部のエースで最強という肩書きを背負うのはまぎれもなく、目の前でお菓子を摘む、この美月だ。

 モデルと間違われるほどの体型のどこに毎日食べるお菓子が消えていくのかは考えるだけで虚しくなる。剣道だけではなく、運動なら基本何でも得意で、負けの二文字を知らない。頭も良く生徒からも先生からも一目置かれている才女だ。

「試合で優勝したら、ファミレスのデザート何種かおごってあげるよ」

 そういうと、美月は嬉しそうに目を細めた。

「お、言ったな。約束忘れないでよ」

 彼女のことだ、きっと期待通りの結果を勝ち取ってきてくれるだろう。今から財布に余裕を作っておかないといけない。




 梅雨時の晴れ間は貴重らしい。昼時の空は綺麗な青色だったのに、次第に灰色の雲が青を塗りつぶし、掃除が終わる頃にはすでに雨が降り始めていた。クラスのあちらこちらでは「傘を忘れた」という嘆きが、今日の天気のようにポツポツと起こっていた。いろいろな疑問は残っているが、傘が見つかって良かったと、心の底から思う。

「あれ、夏帆。今日部活行かないの?」

 部活用にと長い髪を結う美月に対し、ぼんやりと机に頬杖をつく夏帆に疑問を感じて問いかける。

「いやー保健室行かないといけなくて」

「なに、怪我でもしたの?それとも病気?」

 驚き矢継ぎ早に尋ねると彼女は大げさに右手を顔の前で振った。

「違う違う。私保健委員なの。なんか大判用紙にアンケート結果をまとめないといけない」

 演劇部は今日通し稽古をすると聞いていたし、それを彼女が楽しみにしているのも知っていた。 部活に行きたくて仕方がないのだろう、笑顔の下に、少々イラついた顔覗かせている。演劇部のくせに、下手くそな笑顔だ。

「いいよ夏帆。私電車が来るまで暇だし代わりにやるよ」

「いいの?」

 すると黙ってこちらを見ていた美月が夏帆の頭を思いっきり叩いた。

「『いいの?』じゃないよ。全く、いつも綾香に迷惑かけて」

「いや、私が好きでやってるんだから。ほら、私は2人と違って部活もやってないし、暇だし」

 電車の時間まで適当に本かなにか読んでおこうかと思っていたところだ。友達の役に立てるならちょうどいい。

 ありがとうと何度も頭を下げ、お礼に明日ジュース奢るね、と大きく手を振り廊下へと消えた夏帆にこちらも手を振って見送った。

「綾香、今日はちゃんと傘に入って帰りなよ」

 美月は、今度こそ風邪ひくよ、と念を押すように脅す。きっちりと髪を結んだ彼女は、普段より凛として見えた。

「うん。美月も部活頑張ってね」

「どうも」

 夏帆とは対照的に、小さく軽く手を振って悠然と部活に消えていった。彼女が剣道をしているところを実はまだ見たことがない。いつか時間が空いた時に、こっそり覗きに行ってみようと心に決めた。


 忙しい友人の代打です、と名乗ると保健の先生は書類を作るのを止めて、面倒見がいいのね、と笑った。私はなんて返したらいいかわからず曖昧に言葉をこぼした。

 保健室での仕事を終えると、学校を出るには申し分のない時間だった。出来上がったものを丸めて輪ゴムで止めて先生に渡した。

 それじゃあ、と形だけ頭を下げて消毒液の匂いのする部屋を抜けると、水を含んだ腫れぼったい空気が体を包みこんでくる。雨がつれてくる青くて埃っぽい匂いが、鼻をくすぐった。

 廊下を歩いている間は誰ともすれ違わなかったかわりに、靴箱の前に男の子がいた。隣の席に座っている彼だった。ちょうど右足を靴に突っ込んでいる最中のようだった。ふと、雨のせいでくらい視界の先で傘立てを見た。


 私の傘がなかった。慌てて近づいても見つからない。そこには真っ黒な傘だけが一本立っているだけたった。

 靴を履き終えた男の子がその傘を手に取ると、傘立てはその役割をなくしただの金属の四角いオブジェになった。

 困惑した。ただただ困惑した。確かに昼休みはあったのに。どうして、見つからないのか。立ち尽くす私に、彼がふと視線をぶつけた。とたんに恥ずかしくなった。別に私は悪いことをしているわけではないのに、誰かに見られると、居心地悪くなった。

 なんでもないように必死で取り繕って、靴に両足を突っ込む。今度も風邪をひかないといいのだけれど。こんなにも早く、雨の中に飛びこまないといけない事態が再びくるとは思ってもいなかった。




 傘はどこに行ったのだろう。夕飯を食べても宿題をしても、布団に潜ってもそのことばかりがちらついて私を不快な気分にさせた。物事が手につかない。不明瞭なことがこれほど不快とは初めて知った。

 傘は次の日見つかった。失くなった時と同じように突然に。まるではじめからそこにあったかのようにごくごく自然に。一回ならまだしも、同じことが間髪を入れず起こるなんて、誰かが意図的にやっているとしか思えない。

 もしかして、これがやたら世間で騒がれているイジメと呼ばれるものなのか。

 そうすれば、犯人は随分利口だと思う。上靴を隠したり、机に死ねと書いたりするような幼稚でわかりやすいイジメは、このご時世すぐに問題になる。しかし、雨の日だけを狙って傘を取り次の日元に戻す、といった嫌がらせは表沙汰になりにくい。それに結構不快感を与えられる。

 もし、これが私ではなく美月や夏帆の身に起こっていたら、私は誰かの嫉妬によるものだと推理したはずだと思う。

 二人とも才能に手足が生えたようや存在だから、意図せずとも人のコンプレックスを刺激してしまうことがあるだろう。けれど私は悲しいことに二人とは違う。なんの才能もない、特別でもなんでもない人間だ。嫉妬することはあってもされることはありえない。

そうなると、やはり気づかないうちに誰かに恨まれるようなことをしてしまったのか。考えれば考えるほど気は滅入る一方だ。



 昼休み、美月は早々に弁当を平らげ、チョコレートの袋をあけていた。一方夏帆は、目尻に涙を浮かべて、次の数学の授業で提出しないといけないプリントをやっている。

「なんでギリギリまでやらないわけ?」

「そんなの私が一番聞きたいよ。美月、意地悪なこと言わないで、手伝って」

「手伝ったらアンタの身にならないでしょ」

 ただ私は二人の会話にはどうとでも取れる相槌をうち、窓の向こうの雲を見ていた。

 嫌な色の空だ。天気予報通りもうすぐ雨が降るだろう。傘はもちろん持ってきている。けれど、これはきっと確実に誰かの手によって隠される。傘を別のところに置こうか、とは思った。が、なかなかいい場所は見つからない。折り畳み傘を鞄に入れることも考えたが、それはそれで何かに負けた気がしてやめた。自分のことながら、変なところでプライドが高い面倒な性格だと思う。

 会話に参加しない私を不審に感じたのか、美月がチョコレートを差し出した。

「暗いね、どうしたの」

「いや、傘のこと考えてただけ」

 笑って、ありがたくチョコレートを受け取る。

「わざと私の傘が盗まれてるみたいだからさ。私、誰かに恨まれてるのかなぁって思って」

そう考えれば、やはり落ち込む。

「それはないと思うけど」

 美月は即座にそう返した。綺麗な長い指が、軽やかな動きでチョコレートを彼女の口へと放り込む。夏帆もプリントに走らせていた手を止めて、深く頷いた。

「大丈夫だって。もしかしたら傘泥棒は悪気があってしてるわけじゃないかもよ」

 夏帆らしい、明るい考えだ。なにをどう捉えればそんな綺麗な答えに辿り着けるのかは知らないけれど、無理にでもそう思い込めば僅かに楽になる。

 私もチョコレートを口に運ぶと、甘ったるい味が舌の上にゆるりと広がった。暗い気分の時、甘いものを食べると心が落ち着く。もしかしたら砂糖の中に幸せ成分でも入っているのかもしれない。




 数学の時間はなんとか我慢できた眠気が、次の英語の時間には抱えきれないものになっていた。

 異国語の長文の、文と文の間の空白で浅い夢を見ては慌てて起きるのをしばらく続け、最終的に開き直って机に伏せった。

 ゆるゆると幕が上がるように始まった夢の世界は、なんとも言えない微妙なものだった。

 傘があるのに硬くて開かない、どうしようと焦るほど傘はどんどん重くなって、最後には地面にめり込んで、持ち上げられなくなった。怒られるリスクを背負ってまでみた夢だというのに、あんまりだと思う。


「随分とうなされてたよ」

 授業終了と同時に目を覚ました私に、隣の席の男子が柔らかく眉を下げて微笑んだ。彼には悪いことをしてしまった。英語の先生はやたらペアワークをやらせる人で、何かにつけて隣の人と英会話をさせたがる。私というペアが爆睡こいているせいで彼は少なからず迷惑したに違いない。非常に申し訳なく思う。

 意味なく外の景色を見ると、昼時より空が低くなっていた。思わず、降りそうだ、と呟くと男の子はさらに眉を下げた。





 予感は見事に当たった。掃除に取り掛かり始めると、細い糸のような雨が風になびきながら落ちてきた。今から走って傘立ての方に向かおうと思ったが、生憎なことに先生が近くにいた。そのせいで掃除をサボって傘を見に行くことはできなかった。仕方がないので、私は傘泥棒も同じように先生に邪魔させていることを願った。

「綾香は今日も四十分まで時間潰すの?」

 夏帆が荷物を無造作にまとめながら問いかけた。教科書を持って帰る気はないらしい、筆箱やクリアファイルだけを鞄の中に放り投げている。

「あー、そうしよっかな」

 私も荷物をまとめながら答える。本当は傘立てに張り込もうと思っていたのだが、急遽先生の手伝いで職員室へ行かなければいけないことになってしまった。クラス委員という名の雑用係なんて引き受けるんじゃなかったと、後悔が募る。

「二人とも、部活頑張ってね」

 面倒だが、引き受けた以上文句を言うわけにはいかない。先生の手伝いのため、職員室へ行くしかない。普段は私が二人が部活へ行くのを教室から見送っているが、逆はなかったから新鮮だ。じゃあね、頑張りなよ、と手を振る二人に少し頬が緩んだ。


 気合を入れて行ったのに、頼まれた手伝いは本当にあっけないもので、五分もたたないうちに終わってしまった。こんな些細なことでいちいち職員室まで呼び出さないでほしい。

 四十分まで潰す予定だった時間を両手に抱え、傘立ての張り込みに向かうことにする。もうすでに盗まれている気がするが、その時はその時で考えようと腹を括った。とりあえず、様子を見に行くのが先だ。

 雨のせいで廊下で筋トレをしている野球部の声出しと、合唱部の発生練習が上手く掛け合っている。あちこちで部活が動き始めると、放課後の匂いが一気に増す気がする。美月は竹刀を振っているのだろうか、夏帆は演技をしているのだろうか。


 靴箱前まで来れば、音楽室から離れたせいか、合唱部の歌声は聞こえなくなってしまい、かわりに雨の音が大きくなった。私は離れた曲がり角に半分身を隠し、そっと傘立てに視線を移す。

 美月と夏帆がいた。部活に行かなくていいの、と声を掛けようととする。その時私の目に信じられないものが映った。

2人の手が私の傘にかかっていた。

「どこ隠す?」

「いつもと同じでいいでしょ」

 夏帆の問いかけに、美月がさらりと返す。なんの含みもない、くだらないことを話す時と全く同じ口調だった。表情も、私が知る二人と何一つ変わらない。それが余計に辛かった。

「どうして」

 言葉を出すと同時に、視界が滲み始めた。大きく肩を揺らし、二人が振り返る。驚いた顔をしていた。でも、二人の手は私の傘の上にある。

 見たくない光景だった。忘れられたらどれだけ良かったか。

「友達って思ってたのに。私だけだったんだね」

 最後は声が震えて自分でも聞き取れなかった。握り締めた手の甲の血管が浮いている。

 踵を返して、駆け出した。二人の顔を見たくなかった。それ以上に、私の顔を二人に見られたくなかった。

 トイレの個室のドアに鍵をかける、かちゃりという音が起爆スイッチだった。なんとか理性で押さえつけていた、悲しさや辛さ、苦しさが一斉に湧き上がり洪水を起こす。真っ直ぐ立っていられず、壁にもたれかかって何度も息を吐いた。頬を伝う水が生暖かくて、鬱陶しい。制服の袖で無理やり目を拭えば、袖に変な形のシミが浮き上がった。それが余計に惨めな気持ちを加速させる。

 目を閉じていても開いていても、視界にはさっきの二人の姿が焼きついていて、消えない。

 友達だと思っていた。信じていた。大切にしていた。


 いや、違う。

 私はすがり付いていた。


 才能に手足が生えた、そんな存在の二人に置いていかれるのが怖くて、恐ろしかった。だから、必死になってしがみついていた。友達、という名前に。

けれど私がこの両手で掴んでいるつもりだったものは、最初からなかったんだ。

 私は空っぽだった。演技力があるわけじゃない。運動ができるわけじゃない。勉強だって並み以下で。誰からも、友達からも、必要とされていない。ちっぽけでくだらない、何も持っていない人間。何の取り柄もない、つまらない人間。沢山降り注いでは、すぐにはじけて消えていく、雨粒の一つと同じだ。

 初めから気づいておくべきだった。そしたらこんなに傷つかなくて済んだはずだった。私のような雨粒が太陽と友達になれるはずなんてあるわけないのに。私は自分の何を過信していたのだろう。


 

 どのくらい泣いたのだろう。気づけば涙は底をつき、しゃくり上げる呼吸だけが残っていた。目を閉じて深呼吸を繰り返すと、鼓動が少し落ち着いた。袖でもう一度顔を拭って、鍵を開けて個室を出る。トイレの鏡に映った自分は、腫れ、充血した目をしていてとても醜い。思わず鏡から視線を外した。

 廊下を歩く途中、聞こえてくる合唱の歌が耳に痛かった。野球の野太い声に胸を押し潰された。

 靴箱から黒のローファーを取り出して、両足を突っ込む。視線を傘立てに移すと、そこには傘が二本あった。深い青に鈴蘭の模様が入った傘と、その隣に闇を切り取ったような色の傘。傘立てに腕がひょいと伸びてきて、私の隣の傘の柄を握った。重たそうな前髪と、サイズの合っていない大きなメガネが特徴的な男の子だった。

「一緒に帰らない?」

 雨の音に上手く調和する、そんな声色で、大野くんは眉を下げて笑った。


 彼の方から誘ってきたくせに、大野くんは隣を歩くだけで一言も口を開かなかった。けれど、傘をさすことで自然と生まれる距離のお陰か、雨音のお陰か、沈黙が心苦しくない。背丈はあまり変わらないのに、アスファルトを踏む足は私より二回りほど大きい。彼が水溜りを踏むたび、水が弾ける大きな音がした。さっきまで青だった信号が、いざ渡ろうとすると点滅して瞬く間に赤に変わった。止まっていた車が一斉に動き出す。

「相談したんだ」

 赤信号に観念したのか、大野くんがやっと声を出す。

「そしたら、質問責めにあった」

 真っ黒な傘を前のめりに傾けているせいで、顔がわからない。

「なんの話?」

 全容の見えない語り草に呆れて、私は彼を急き立てた。

 数秒の沈黙後、大野くんは意を決したように、まっすぐ私を見つめた。

「僕は君が好きだって話」

 駆け抜けるように言い切った。そしてまた傘を倒して顔を隠す。

 信号が赤から青に変わる。私たちの後ろで青を待っていた女性が不思議そうな顔をして二つの傘を追い越した。大野くんは動かない。私も一歩も動かなかった。

 

 水の音が聞こえない。


 信号がまた点滅をする。それに急かされたのか、大野くんが顔を隠したまま、小さく声をあげた。

「僕は君が好きだ。だから告白したいって思った。でも、僕は臆病で小心者で、何かきっかけがないと声をかけることすらできない。そんな人間だ」

 彼は自嘲するように言葉を震わせた。

「だから、相談したんだ。君の二人の友達に」

 友達、その言葉に反射して私は大野くんに一歩踏み出した。水たまりが歪な王冠を作って散る。大野くんの表情は相変わらず傘で隠されている。

「君の友達はすごかったよ。僕は二人に質問責めにされた。君のどこが好きか、とか、いつから好きか、とか、中途半端な気持ちで言っているなら許さない、とか。最後の方はほとんど脅しだったけど。恥ずかしかったけど全部答えたら、二人は協力してくれるって笑ってくれた。告白にぴったりな、ロマンチックなシュチュエーションを作ってあげるって」

 大野くんは口をたっぷりとつぐんだ後、ゆったりとした聞き取りやすい口調で続けた。

「二人が僕のために立ててくれた計画はこうだ。まず、二人が君の傘を隠す。次に雨の中どうしようもなくて困っている君に僕が声をかける。『よかったら入っていかない?』とか気の利いた台詞を言うつもりだったんだ。でも、いざその瞬間になると言葉が迷子になって。そうこうしてるうちに、鈴谷さんは雨の中を突っ切って行ってしまった。それも、二回とも」

 大野くんはようやく傘を肩の方へ傾けて、私の目の奥を見た。私は息を潜めて、彼の瞳を見つめ返す。

「ごめん、全部僕のせいなんだ。あの二人を責めないであげてほしい。全部、臆病で小心者の僕が悪いんだ」

 ザアザアと降る雨の中傘を閉じた彼は、深々と頭を下げた。肩に沢山の滴が落ちて、瞬く間に制服の色を濃くぬりかえる。芯のしっかりとした黒髪が、濡れ細って下に向かって垂れた。

 気がつくと私は自分の傘を彼に差し出していた。

「私のどこがいいの」

 跳ね上がるように顔を上げた大野くんは、強い力で傘を私の方へと押し戻す。

「そんなふうに自分を卑下するところ以外は、全部」

 そう言って、へばりついた前髪を鬱陶しそうに拭うと、ハの字眉毛の微笑みがあらわになった。

「はじめて会ったのは、文化祭で演劇部が劇をやっていた体育館。君は僕の斜め前の席に、友達と二人で座ってた。幕が上がれば、誰よりも熱心に舞台に視線を注いで、舞台が終わると誰よりも大きな拍手を送っていた。興奮した声で主役も、は役も、照明も、大道具も、舞台に関わった全ての人たちを褒めていた。素直に人を褒められる素敵な人だってその時思った」

 早口で捲し立てるように言う。大野くんの声が雨音をかき消す。

「次に会ったのは体育祭。甲高い大きな声で、トラックを走る友人に声援を送っていた。その友達が出る種目が終わっても、鈴谷さんは身を乗り出して、声を張り上げて、色んな人を応援していた。明らかに足が遅い人にも、転んだ人にも、さっきの友人にしていたのと同じ応援を。凄く、凄く、優しくてカッコいい人だと気になった。僕はその時からずっと、クラスが同じになる前から、鈴谷さんのことが好きだった!」

 雨に濡れながら顔を真っ赤に染めて、大野くんは続ける。

「誰もが嫌がってやりたがらなかったクラス委員を引き受けていた。黒板を消し忘れた日直のかわりに、綺麗にしているのを見た。困っている人には真っ先に手を差し伸べて、面倒くさい仕事は率先して行う。鈴谷さんはそういう人だ。嫌いになる理由の方が見つからない」

 大野くんの瞳が真っ直ぐに、私の瞳の中に入り込む。彼の言葉が、鼓膜から全身へと巡り出す。そして、その言葉は胸のあたりで熱に変わって私の全身を染めあげる。

 リモコンの一時停止ボタンを押したみたいに、私と彼以外の世界が止まっている気がした。涙が目尻のすぐ近くまで迫っている。いっと、この涙はさっき底をついたものとは違う。少しでも気を緩めたら、流れ出てしまいそうだ。


 空っぽだと思ってたのは私だけだったんだ。


 私には、鬱陶しいくらい私のことを想ってくれる友人が二人もいて、一生懸命に好きだといってくれる人が目の前にいる。


 それはどれだけ特別なことなのだろう。


「よかったら、入っていかない?」

 傘を閉じたままの、びっしょり濡れた大野くんに私の傘を差し出す。彼は目を丸くして、数秒後に吹き出した。

「それ、僕が言いたかった台詞なのに」

「残念でした、早い者勝ちです」

 私も笑いながら答える。メガネについた水滴をハンカチで拭いて、大野くんは大袈裟なため息を吐いた。そして、一歩強く踏み出して、私の傘の中に飛び込む。

「傘は背の高い僕が持つ」

 大して変わらないくせに、私の手から傘を奪い取った。濡れた肩が私の肩に当たる。

 止まっていた街並みが、再生ボタンを押されて何事もなかったように動き出す。信号が赤から青へ変わる。

 さっきまで傘を握っていた右手が手持ち無沙汰になってブラブラと揺れる。隣を見れば、大野くんは開いた傘と閉じた傘をそれぞれ片手に一本ずつ持っていて、滑稽だった。私は右手を、笑いをこぼしそうな口元を抑えるのに使った。


 深い青色に鈴蘭の模様の傘は、下から見上げると白い雲が浮いた青空のようだった。ふと、朝に見た、週間天気予報を思い出す。そういえば、今日の傘マークの隣で、太陽マークが笑っていた。予報は当たるだろうか。

「明日は晴れるかな」

同じことを考えていたのだろうか、大野くんが傘の向こうの空を透かすようにみて、尋ねた。

「私は、気象予報士じゃないから詳しくはわからないけど」

そう前置きをして、また口を開ける。

「まず、明日の天気がどうであれ、美月と夏帆に謝るよ。勘違いしてごめんって」

多分、この先どんなことがあっても私はあのお節介な友人二人を嫌いになれない。真っ先に謝って、またいつも通り、グダグタと訳が分からない話に花を咲かせたい。

「それと」

私はそう言って、傘の内側へさらに一歩踏み込む。狭い傘の下で、びしょ濡れの肩と私の肩が当たって冷たい。目だけ動かして隣を見上げて、そっと溢すように口を開く。

「雨が降ってても、上がってても、大野くんと一緒に帰りたい」

声を紡いだ唇が熱い。心臓がうるさい、なんて使いまわされたフレーズが実体験になる。

「僕も」

傘の下の青空で、大野くんが顔を太陽の色に染めた。













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