つくも出張料理店

神無月もなか

つくも出張料理店

「ただいまー……」


 鍵穴に鍵を差し込み、回す。

 疲れを隠しきれない声と表情で呼びかけながら、扉を開いて真っ暗な室内に足を踏み入れても、もちろん返事は返ってこない。

 虚しくなるだけなのに幼い頃から繰り返してきたルーティンは、一人暮らしを始めたからといって簡単に崩れてはくれない。

 今日もただ空虚感を味わうだけの帰宅の儀式を済ませ、飯島文花いいじま ふみかは深く息を吐きだした。


「あー……もう、疲れた……」


 適当に靴を脱ぎ、電気をつけ、とぼとぼと元気のない足取りで静かな自宅の中を進んでいく。

 文花が一人暮らしを決意し、実家を出てきてからまだ数ヶ月だが、心はすでにぽっきりと折れそうだった。

 就職氷河期にある今の時代で、死にものぐるいで大手会社への就職を実現したのはよかった。憧れの職業につけたこともよかった。

 しかし、毎日続く残業に厳しい上司からの声。頻繁に入る夜勤は社会人として働き始めた文花の精神をあっという間に削っていってしまった。


 鞄を床に放り出し、まだ着慣れないスーツを脱いで物干し竿にかけていく。

 洗うものは脱衣所に置いてある洗濯カゴの中へ次々放り込んでいき、シャワーを浴びるついでに一日中していたメイクもしっかりと落とした。

 身体全体が仕事モードからオフモードに切り替われば、どっと疲れが一気に押し寄せてきて、重力が急に強くなったように感じられた。


 ご飯、食べないといけないってわかってるけどなあ。


 重たい身体を引きずるように歩きながら、文花は悲しく空腹を訴える腹をさすった。

 一度身体がオフモードに入ってしまえば、空腹は強く感じられる。何も食べずに寝てしまうのも考えたけれど、無視するには少々難しいほどにお腹がすいていた。

 しかし、今から自分で何か作って食べるには身体が疲れすぎている。

 こんなときに限ってコンビニに寄って何か買って帰るのを忘れてしまう自分を呪いたい気持ちになった。


「……何か適当に食べるものでも探すか……」


 もしかしたら、冷蔵庫の中に作り置きのおかずがまだ残っていたかもしれない。

 冷蔵庫の中が駄目でも、定期的にカップラーメンやレンジで温めるご飯などの保存食も購入しているので、棚を探せばそういうものも出てくるはずだ。

 今にもくっついてしまいそうな瞼を必死で引き離し、キッチンにある冷蔵庫の前に立った瞬間、冷蔵庫の扉に貼り付けられたチラシが視界に入った。


『つくも出張料理店 あなたのために料理をお作りします!』


 可愛らしいフォントで大きく書かれた一文が、疲れ切った文花を誘っている。

 一回、二回、瞬きをしたのちに文花はそのチラシを手にとった。


「私、こんなのいつ貼ったっけ」


 今日はじめて目にしたような気がするが、最近は蓄積した疲労のせいで頭があまり回っていない。おそらく、届いた郵便物の中に入っていて過去の自分が冷蔵庫に貼り付けておいたのだろう。

 文花の手の中にあるチラシには、つくも出張料理店の簡単な説明とサービス内容、利用料金、そして依頼する場合の連絡先など、さまざまな情報が記載されている。ざっと内容を読んでみたところ、依頼者の自宅で料理を作ってくれるサービスのようだ。利用料金も高すぎず、手頃な価格で利用しやすそうだ。

 疲れ切って料理をする元気もない今、ちょうどいいかもしれない。


「……電話してみよ」


 チラシを片手にキッチンから離れ、鞄の中に入れていたスマートフォンを取り出した。手帳型のケースに収められたそれを操作し、チラシに書かれていた電話番号へ連絡をした。





 お電話ありがとうございます、つくも出張料理店です。この時間からのご利用ですか? はい、問題ありませんよ。ご住所とお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。……はい、……はい、飯島文花様ですね。ありがとうございます。すぐに派遣しますので少々お待ちください。本日は当店をご利用いただきまして、まことにありがとうございます。

 電話越しにそのようなやり取りをしたのが、今から三十分ほど前のことだ。

 普段なら三十分という時間、待っているのは苦ではない。しかし、疲れ切った状態のうえに時間は深夜。油断するとうっかり眠ってしまいそうだ。


「寝ない……絶対に寝ない……眠くない……」


 ぶつぶつと自分に言い聞かせながら、掃除や洗濯など、料理以外の家事を片付けて眠気を振り払う。

 あらかた他の家事が片付くのと、インターホンが来客を知らせたのはほぼ同時だった。


「はーい……」

「夜分遅くにすみません。つくも出張料理店の者です」

「今行きまーす……」


 覇気のない声で呼びかけに答え、相変わらず重い身体を引きずるようにして文花は玄関に向かった。

 すっかりへろへろの状態で扉を開けば、扉の向こう側に立っていた人物は文花の様子に目を丸くした。


 扉の向こう側に立っていたのは、男性と女性の二人組だ。おそらく年齢は二人とも大学生くらい。女性のほうは小柄だからか、それよりも若そうな印象を受けた。

 男性のほうはシンプルなシャツとスラックスという服装をしているのに対し、女性のほうはシンプルなブラウスにロングスカートという格好をして大きなリュックを背負っている。二人のシャツやブラウスには『つくも出張料理店』とプリントされているため、おそらくこれが制服なのだろう。


 やや慌てた様子で、女性は文花の目をまっすぐに見つめて問いかける。


「あの……ずいぶんとお疲れのようですが、大丈夫ですか……?」

「あはは……ちょっと頑張りすぎちゃって……大丈夫ですので、心配しないでください」


 それよりも、こんな夜遅くにすみません。ありがとうございます。お疲れでしょうし、中へどうぞ。

 苦笑いを浮かべて女性へ返事をし、文花は二人を室内へと入れる。

 男性と女性は少々心配そうな顔をしていたが、一度顔を見合わせてから室内へ足を踏み入れた。

 普段なら自分一人だけで静まり返っている廊下を、文花とつくも出張料理店からの派遣員二人の合計三人で何気ない会話をしながら進んでいく。

 たったそれだけのことだが、疲れ切って人恋しい気持ちになっている今の文花には、泣きそうになるくらいにありがたかった。


 リビングまで案内し、文花は二人へお茶を出す。

 男性は「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にしてから、気を取り直すように小さく咳払いをして口を開いた。


「本日は、つくも出張料理店をご利用いただきありがとうございます。飯島様。僕は派遣料理人の三徳貴理みとく きり、こちらはアシスタントの平雪日琴ひらゆき にことと申します」

「アシスタントの平雪です。どうぞよろしくお願いします」


 その言葉とともに、貴理と日琴が名刺を差し出した。

 どうやら男性のほうが貴理、女性のほうが日琴というらしい。

 二人の名刺はどちらも白地にオレンジ色のラインというシンプルなデザインをしており、裏面にはつくも出張料理店についての情報が書かれていた。

 二人分の名刺を受け取りながら、文花は慌てて口を開く。


「あ、ええと、わざわざご丁寧にありがとうございます」

「ふふ、飯島様ははじめてのご利用ですから」


 日琴がくすくすとどこか楽しげに笑う。

 貴理もつられるように、優しい微笑みを浮かべてから言葉を続けた。


「さて……当サービスでは、お客様のご希望を聞いて料理を作り、提供させてもらっています。特に希望する料理が思い浮かばなかった場合、今の気分にあわせてこちらでメニューを決めるおまかせコースもございますが……」


 貴理の説明に耳を傾けながら、文花は考える。

 疲れ切った身体には肉類はつらいため、肉料理は除外する。かといって、魚料理という気分でもない。どちらかといえば、野菜をたくさん食べたい気分だ。

 それに、野菜なら深夜に食べてもそれほど太らないかもしれない。最近コンビニご飯や外食になりがちだったため、ここで野菜を食べるのは正解であるかのように感じられた。

 心の中で一人頷き、文花は目の前にいる貴理と日琴へ言葉を返した。


「野菜を使った料理が食べたいです。できれば、短い時間で作れそうなもの」

「野菜料理ですね。かしこまりました。苦手なものや食べれないものなどはございますか?」

「アレルギーとかは特にないです。野菜なら、苦手なものもありません」


 貴理の問いかけに一つ一つ答えていけば、彼は手元のメモ帳に文花から聞き出した情報をメモしていく。

 大体の質問を終えた貴理は、メモ帳をしまって再び穏やかな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。では、早速調理に移るので少々お待ちください」





 貴理と日琴をキッチンへ案内し、どこに何があるか、どのようにして使えばいいか、調理場の基本的な情報を伝えれば、二人は言葉どおり早速調理に取りかかった。

 日琴がずっと背負っていたリュックを下ろし、中から野菜を取り出していく。玉ねぎにピーマン、ズッキーニにナス。それからトマト。色とりどりの夏野菜たちは日琴の手によって、ずらりと調理台の上に並べられていった。

 すかさず貴理がそれらの夏野菜を手に取り、丁寧に洗っていく。洗い終わった夏野菜は一旦ボウルの中に入れられ、洗う必要がない玉ねぎは皮をむいて根と頭を切り落とされていた。


「日琴、ニンニクとホールトマトの準備。それから圧力鍋の準備」

「はーい」


 下処理をした玉ねぎを食べやすい大きさに切りながら、貴理が日琴へ指示を出す。

 彼の指示に従って、日琴は野菜が入っていたポケットからニンニクを、違うポケットからホールトマトの缶を取り出して調理台に置いた。

 その後、文花が教えた戸棚から圧力鍋を取り出してコンロに設置し、違う戸棚からオリーブオイルを取り出して用意する。

 リビングでゆっくり待っていてもいいのだが、自分以外の誰かがキッチンに立っているのがなんだか新鮮で、文花はテキパキと調理を進めていく二人の様子をじっと眺めていた。


 下処理を終えた貴理の手が缶を開け、中からホールトマトを取り出す。

 ホールトマトも適度な大きさに切ると、次にニンニクを刻んで小さめの器へ移した。

 続いて玉ねぎ以外の夏野菜が次々に食べやすい大きさへ切られていき、包丁のリズミカルな音がキッチンの空気を震わせる。


 黙々と具材を切っていく貴理の隣で、日琴はコンロの火をつけた。

 圧力鍋が適度に温められるまで少々待ってから弱火に切り替え、オリーブオイルをさっと引いて刻まれたニンニクを投入する。

 温まった鍋底でニンニクが熱され、じゅわじゅわ音をたてる。次第に、ニンニク特有の香ばしい香りがキッチンを満たし始めた。

 あまり食欲がないときでも、ニンニクの香りを嗅いだら食欲が刺激されるのだから不思議だ。


「貴理さん」

「ん」


 日琴が短く貴理の名前を呼び、鍋の前を一度離れた。

 作業を終えていた貴理が素早く手を洗ってから、日琴と居場所を入れ替わり、先ほど切ったばかりの野菜を圧力鍋の中へ次々放り込んだ。

 玉ねぎ、ピーマン、ズッキーニ、ナス――夏野菜を順番に放り込んで炒め、火が通ったら次の野菜を入れる作業を繰り返す。最後にトマトとホールトマトも鍋の中に投入し、ぐるりと中身を一度だけかき混ぜた。


 ふつふつと鍋の中身が煮立ってきたタイミングで、貴理の指先がコンソメとローリエを鍋の中へ入れる。

 最後に塩コショウを軽く振って蓋をし、重りもセットすれば、まもなくして加圧が始まった。

 その間に、貴理がそれまでの調理で使った道具を洗って片付けて始め、日琴は新たに取り出したバゲットを適度な大きさに切り分けて焼いている。


「……美味しそう」


 自分以外の誰かが、自分のために料理を作ってくれている。

 ここしばらく目にしていなかった光景を眺めながら、文花の唇から自然とそんな感想がこぼれ落ちた。

 ぱっと貴理の目が文花へと向けられ、少しだけ困ったように苦笑を浮かべた。


「リビングで待ってくれていてもよかったのに。お疲れでしょう?」

「あ、いえ……。その、誰かが料理を作ってるのを見るのが久しぶりなので……つい」


 やっぱり、じっと見つめられるのは迷惑だっただろうか。

 文花の中でわずかな不安と気まずさが顔を出し、思わず貴理と日琴から目をそらしてしまう。

 貴理は一度手を洗ってから文花に近づき、優しく手をとった。触れた手は文花よりもずっと大きく、男性の手だとはっきりわかるものだった。

 優しく手を引かれ、リビングにある椅子の前で両肩を軽く押されると、まるで魔法にかかったかのようにすとんっと文花の身体は椅子に座り込んだ。


「立っているのもお疲れでしょうから、ここでお待ちください。あとは煮込むだけですので」


 そういった貴理の声は、疲れた心に染み渡るような穏やかさと優しさに満ちていた。





「おまたせしました、飯島様」


 その声に反応し、文花は机に突っ伏した姿勢から慌てて背筋を伸ばした。

 どうやら完成を待っている間に少しだけ眠ってしまっていたらしい。急いで時計を見ると、貴理にリビングへ移動させられてから大体十五分ほど経過していた。

 思い切り眠ってしまっていなかったことにほっとしつつ、文花は口元をこする。

 彼女の様子を見ていた貴理は、数回瞬きをしたのち、わずかに苦笑を浮かべる。


「相当お疲れなご様子。どうしましょう、冷蔵庫に入れておいて翌日お召し上がりになりますか?」

「い、いえ……やっぱり、できたてが一番美味しいと思うので。今、いただきます」


 依頼をしたのはこちらなのに、気を使わせてしまった――苦い思いを噛み締めながら、文花は貴理に言葉を返した。

 うっかり眠ってしまったけれど、できたてを食べたいという気持ちは本当だ。空腹のまま眠るのもつらいし、このまま眠っても眠りが浅くなる可能性が高い。

 それに何より、先ほど二人が料理をしている様子を見て、空腹がより強くなっているというのもある。


「……そうですか? それなら、今お持ちしますね。少々お待ち下さい」


 少しの間、貴理は心配そうな目で文花を見つめていたが、提供すると決めたらしい。

 一度キッチンのほうに向かっていき、彼と入れ替わりで日琴が姿を現す。

 日琴はテーブルに向かっている文花の前に、可愛らしい花柄のランチョンマットを敷く。さらにそこに温かみを感じさせる木製のスプーンを並べ、こんがりと焼いたバケットが入った皿を置いた。

 最後に、戻ってきた貴理がランチョンマットの上に、湯気をたてる深めの皿を置く。


 野菜が持つ鮮やかな赤。その中に映えるナスの黄色やピーマンの緑。

 皿の中に入れられているのは――夏野菜を煮込んで作られたラタトゥイユだ。


「今回のリクエストは、野菜を使ったものとのことでしたのでラタトゥイユをご用意させてもらいました。圧力鍋を使用して作ったので、本来の調理時間を短縮しておりますが、味には問題ございません。こちらのバケットと一緒にお召し上がりください」


 貴理の説明が添えられれば、目の前にあるそれがより美味しそうに見えてくる。

 先ほどまで感じていたはずの疲れも眠気も、まるでそれらが嘘だったかのように気にならなくなった。

 今、文花の中にあるのは空腹感と、目の前に用意された料理を食べることに対する楽しみだ。


「ありがとうございます。じゃあ、早速……いただきます」


 ラタトゥイユを用意してくれた貴理と日琴へ感謝の言葉を告げてから、そっと両手を合わせる。

 食前の挨拶をしたあと、木製のスプーンを手に取り、まずはそのままの状態で一口分を口に運んだ。

 舌の上に広がる爽やかなトマトの味と、一緒に煮込まれた野菜の甘み。オリーブオイルとニンニクが引き出すコク。

 野菜の旨味を最大限に引き出したその味は、文花にとって覚えがあるものだった。


『文花は本当に頑張り屋さんだし、そこが良いところだと思う。でも、あんまり無理しすぎないようにな』


 耳の奥で、まだ子供だった頃に聞いた父の声がよみがえる。

 この味は――かつて、父が文花に作ってくれたラタトゥイユの味だ。


 一口、また一口と口に運ぶたびに文花の胸の中に懐かしさが広がっていく。

 疲れきった心に優しく染み渡る味を楽しむたびに涙腺が緩み、両目からボロボロと涙があふれた。


 乱暴に袖で涙を拭い、今度はこんがり狐色に焼けたバケットへと手を伸ばす。食べやすい大きさにカットされたそれにラタトゥイユを載せて頬張れば、サクサクとした食感と小麦の甘さが混じり合い、ラタトゥイユを単体で食べたときとは異なる風味が舌の上いっぱいに広がった。


 涙とラタトゥイユの味が混ざり、だんだんラタトゥイユが塩辛く感じてくる。

 けれど、一度決壊した涙腺は簡単には元に戻らず、文花はついに食べる手を止めて嗚咽を零し始めた。


 懐かしさと寂しさ。家族を恋しく思う気持ち。毎日クタクタになるまで働き続ける毎日。

 日々の生活の中で削られきった心に、幼い頃を思い出させる懐かしの味はひどく染み渡った。

 親を見失った迷子のように泣きじゃくる文花の背中に、二人分の手が触れる。

 誰の手かは考えなくてもわかる――貴理と日琴の手だ。


「……あなたは、とっても頑張り屋さんです。父君に教えてもらいながら、はじめて料理を作ったときもそうでした。いつも目の前のことに向き合い、一生懸命に頑張れる。それがあなたの素敵なところです」


 貴理の声が文花の心に優しく響く。


「でも、頑張りすぎると心も身体も疲れ切っちゃいますから。完全に動けなくなる前に足を止めて、一息つくのも忘れないでくださいね。……大丈夫です、ちょっとくらい休憩しても誰にも怒られませんよ」


 今度は、日琴の言葉が染み渡ってくる。

 もっと頑張れ、お前には頑張りが足りない、そんなのじゃどこにいっても駄目――繰り返し上司に向けられてきた言葉とは正反対のもの。

 それは、心のどこかで文花が叶うことなら欲しいと思い続けてきた言葉でもあった。


 まるで幼い頃から文花を知っているかのような言葉や、どうしてそこまで優しくいたわってくれるのかなど、気になる点はいくつかある。

 しかし、今はもう少しだけ舌の上に広がる優しい味と二人から伝わってくる温もりを感じていたかった。




 たたん。水滴がシンクを叩く音がして、まどろんでいた意識が引き戻された。

 は、と顔をあげる。どうやら、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。

 あれは夢だったのか――とも思ったが、傍に空っぽになった食器と使われたあとがあるスプーンが置かれているため、夢ではなかったようだ。


「しまった……すっかり寝ちゃってた……」


 貴理と日琴というお客さんが来ていたのに、悪いことをしてしまった。

 なんともいえない苦々しさを噛み締めながら、文花はあくびをこぼし、身体を伸ばした。テーブルに突っ伏した姿勢で眠っていたため、変に固まっていた身体がほぐれていく感覚がする。


 部屋の壁にかけている時計へ目を向ける。

 時刻は午前六時。いつも起きる時間よりも遅く、さっと全身から血の気が引きかけたが、すぐに思い出した。

 そうだ、今日は休みの日だ。とても貴重な休みだから、たくさん寝ようと思っていたんだった。

 安堵の息をつきながら、文花はゆっくりと椅子から立ち上がった。


 ざっと部屋を見渡したが、あの二人の姿はどこにもない。

 かわりに、スープ皿の下に可愛らしいデザインをしたメモがあり、そこには綺麗な文字で書き置きが残されていた。


『お疲れのようですので、僕らはこれで失礼いたします。本日はご利用まことにありがとうございました。代金はきちんといただいておりますので、ご安心ください。どうか良い夢を』


 そんなメッセージの下には、貴理と日琴の名前がそれぞれ綴られている。

 何度か綴られたメッセージを読み返したのち、文花はほうっと安堵の息をついた。


「よかった……私、ちゃんと代金支払ってたんだ」


 いつ支払ったのかは思い出せないし、いつ寝入ってしまったのかも思い出せないが――おそらく、眠気と戦いながらだったから覚えていないのだろう。

 密かに抱えていた心配事がなくなった瞬間、強い空腹感がどっと襲いかかってきて、腹が小さく主張した。

 眠る前に作ってもらったラタトゥイユを食べたが、身体はあれだけでは満足していなかったらしい。


「……何か作ろうかなぁ」


 いつもなら適当に何か買ってきたり、作り置きしておいたものを食べて終わらせるが、あんなに美味しくて懐かしい味をするものを口にしたからだろうか。久しぶりにちゃんとした料理を作って食べたいという気持ちがわいてきた。

 もう一度伸びをして身体の凝りをほぐし、昨日とは打って変わって静かなキッチンへ足を踏み入れる。

 とりあえず包丁と鍋を出そうと思い、それらの調理道具をしまっている戸棚を開けると、包丁差しに収まった三徳包丁と奥のほうにしまわれている雪平鍋が文花を出迎えた。


『文花、一人暮らしをするならこれも持ってけ。手に馴染んだ包丁と鍋があると便利だぞ』


 そういって、一人暮らしを始める日に父が持たせてくれたものだ。

 そういえば最近ちゃんと手入れができていなかったから、料理を始める前に包丁を研いだり鍋を磨いたりしてもいいかもしれない。

 心に蘇った懐かしい思い出を噛み締めながら、文花は三徳包丁と雪平鍋を手にとった。

 瞬間、ふっと脳裏によぎる、貴理と日琴の姿。


「……」


 ……そういえば。

 そういえば、今は亡き祖母が『大切に使ってきた調理道具には神様が宿るのよ』って教えてくれたっけ。


「……いやいや。そんな、まさか……ね?」


 小さく呟く文花の手の中で、三徳包丁と雪平鍋が照明の光を反射して輝いていた。

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つくも出張料理店 神無月もなか @monaka_kannaduki

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