0.0

 港に着いたのは出航の五分前。結局のところ、走って正解だった。

 予約していたクルーズ船は小さいながらも綺麗で、大きな窓がいくつも嵌められている。パンフレットで事前に見ていた通り、船内からでも十分景色が楽しめそうだ。

 無事に乗船して一息つくまでは良かったが、しかしこれは……、と私は自分の身なりを思い出して一人恥ずかしくなる。汗だくだし、住宅街での追いかけっこのせいで服には泥が付いているし。正直なところ、シャワーを浴びて着替えて来るくらいはしたかった。

 そんな私に対し、大樹は再度「ごめん」と呟く。

「もっと早く見つけられていれば、準備する時間も取れたんだけどな」

「……謝らないでよ」

 私は言う。

「そもそも、一人で私が飛び出してなければ良かっただけの話なんだから」


 私たちが案内されたのは窓際のテーブル席で、座ってからしばらくするとウェイターが飲み物のオーダーを取りに来た。彼はコナビールを、私は軽めのカクテル——ブルー・ラグーンを注文する。

 室内の中央には様々な色で彩られた料理が所狭しと並んでいて、それを囲む形でテーブルが配置されている。


 今回の旅行でホテルと式場の次に予約していたのが、このビュッフェスタイルのディナークルーズだった。コース料理ではないから、変に気を遣わなくても良いという点にも惹かれた。実際、周りを見てみると、カップルより家族連れや若者のグループが多く目について、全体的に賑やかな印象だ。静かに料理を味わうというよりは、人との会話に花を咲かせるような場所。そういった空間は普段あまり好まないのだが、今の私にとってはありがたかった。こうでもなければ、大樹とゆっくり話をするなんてことはない。


 ——そうか。

 注文からほどなくして運ばれてきた飲み物を受け取りながら、私は気付く。

 ここを予約していた段階——つまり旅行の前から、私は彼と会話をする機会を、心のどこかで望んでいたのかもしれない、と。


「それじゃ」

 彼がグラスを掲げるのに合わせ、私もグラスを持ち上げる。青く透明な液体は静かに揺れ、それは今朝から私と共に居続けた曖昧な色を彷彿とさせた。

「乾杯」


 静かで透明な音が鳴る。周りは相変わらず賑やかだったが、その音だけははっきりとした輪郭を持って私の耳に届いた。


 一口飲んだ後、大樹がはぁっと気の抜けた息を吐く。

「喉乾いてたし、めちゃくちゃ腹減った」

「確かに。私も」

 考えてみれば、今日はろくに食事を摂っていなかった。おそらく、それは彼も同じなのだろう。

「料理、取りに行こうぜ」

「先行っていいよ。私、荷物見てるから」

「そ。サンキュ」


 立ち上がって料理の元に向かう大樹を見送った後、私は窓の外に目をやる。

 そこには、夜の始まりを優しく迎えるような光を灯す島があった。どこか温かなその光は、この島で出会った人々の姿と重なって見えた。


 良いところだね、と誰に向ける訳でもなく呟いてみる。

 きっと私は、この旅を忘れないだろう。

 この地を、そこに居る人を、そして紡がれる思い出を。

 まだ二日目でそんなことを思うのはおかしいかもしれないが、しかしそれは妙に確信めいた予感として、私の心の中で小さな輝きを放っているのだった。


 視線を戻すと、大樹の座っていた席に置かれた荷物が目に入った。いつだか彼の誕生日にプレゼントした、小さめの肩掛け鞄。そのファスナーは閉まりきっておらず、付箋の貼られたガイドブックが頭を覗かせている。

 さすがに収まりきっていないのはダサくないだろうか。思わず苦笑して、それを引っ張り出す。私のトートバッグならまだ余裕があるし、入れておいてやろう。

 自分の鞄に入れる前に、何となくパラパラと開いてみる。そういえば、この本は大樹ばかりが読み込んでいて、私はろくに見ていなかった。明日は親や友人が来るからしばらく慌ただしくなるが、落ち着いたらどこへ行こうか。

 沢山貼られた付箋の一つ一つに、何やら細かく文字が書かれていることに気付く。昨日も思ったが、随分熱心なものだ。この力を式の進行にも使ってくれれば良いのだが、なんてことを考えながら何の気なしにその汚い字に目を通すと——




 れいな 好きそう

 れいな 行きたいって言ってた

 れいな 喜ぶかな?




 大樹の筆跡で書かれた、無数の言葉たち。


 それを前にして、私はしばらく動くことができなかった。


 ふと我に返り、ページを捲っていく。場所によっては同じページに何枚も付箋が貼られているが、そこに書かれている最初の三文字はどれも同じ。

 私の名前だった。


 何で、という疑問と、やっぱり、という感想を同時に持っている私が居た。

 あの日と同じだ。やたらと考えた挙句に空回りして、私に笑われていた彼。あれから何年も経っているのにも関わらず、彼は以前と変わることなく同じように——


「……あー」

 後ろから聞こえてきた声に振り返ると、悪戯がばれた時のように肩を竦める大樹が立っていた。

「見た……よな?」

 肯定も否定もせずにいると、彼は照れ臭そうにしながら自分の席に腰を下ろし、「これ、一応取ってきたけど」と私の前にサラダを置く。それには、私が唯一サラダにかけることを認めたノンオイルの胡麻ドレッシングがかけられていた。

「まあ、何だ」

 彼は頭を掻き、窓の外を見やる。

「喜んでもらいたかったんだ、澪奈に」

 結局空回りしたけどな、と笑う大樹に、私は思わず口を開く。

「違う。それは……、私が気付かなかっただけだし」

 首を傾げる大樹に、私は続ける。

「パンケーキの店。初めてデートに行った場所……だよね。昨日は思い出せなかったけど」


 あの日彼が予約していたのは、当時人気で入ることが難しいと有名なパンケーキ専門店だった。でも私は甘いものが苦手で、それを知らなかった彼に何度も謝られた。

 ——いや、前もって話していなかった私も私ですし……せっかくだから入りましょうよ。ね?

 どこか滑稽な彼の様子に思わず笑ってしまいながらも、彼がわざわざ予約してくれていたというその事実が、雨上がりの虹を見つけた時のように嬉しくて、結局はその店に入ったのだった。


「二回目は水族館、三回目はアウトレット。……忘れた訳じゃない。全部全部、憶えているよ」


 水族館に行くのを譲らなかったこと。

 トロリーバスに乗って、ショッピングモールへ行こうと提案したこと。

 つまり大樹はこの旅行で、これまでの思い出を追体験しようとしていた。そのことに、ようやく気付いたのだった。


「……そうか。憶えていてくれて、嬉しいよ」

「昨日は何なのか全然分からなかったから、イラッとしたけど」

 私の正直な感想に、大樹はプッと吹き出した。

「説明しない俺も悪いけどな。お前が甘いもの苦手って知っているのに、今更パンケーキの店とか」

「本当だよ。……でも」


 私は彼に、一枚の紙切れを差し出す。先ほどのガイドブックに挟まっていたものだ。それを見た彼は、「うわ」と小声で悲鳴を上げた。

「わざわざ、パンケーキ以外のメニューがある店を選んでくれていたんだね」

 大樹は心なしか顔を赤くしながら、無言の肯定をする。


《パンケーキ以外のメニュー(ごはん系)が充実しているパンケーキ専門店!》と題が付けられたそのリストにはいくつかの店がピックアップされていて、昨日行った店の名前は上から二番目にあった。

 しかしその筆跡は、どう見ても大樹のものではない。

「ガイドブックだけじゃよく分からなかったんだ、そこら辺が。だから……」

 式のリハーサル中にコーディネーターにオススメの店を尋ね、リストにしてもらっていたということか。もう少し訊く場所と状況を考えて欲しかったと言いたいところだが、その心遣い自体は私を温めるのに十分だった。

「そう。……ありがと」

 紙切れを挟み直して、私はガイドブックをぎゅっと抱きしめる。


 彼が私を想ってくれたこと、それ自体を包み込むように。


 ふと、思い出す。

 私は、彼のそういうところに惹かれたのだ。

 そしてそれは誰の思うところでもなく、私自身の意思に他ならないのだ、と。


「——ねえ、大樹。私と、一つだけ約束してくれない?」

 その問いかけに、大樹は無言で続きを促す。

 私を見つめる彼の瞳。その奥に広がる色はどこまでも澄んでいて、果てのない空のようだった。

 ——ああ、やっぱり。


 彼は何一つ変わっていなかった。あの日から、ずっと。

 そんなことを改めて思い、知らず微笑みが溢れるのを感じる。

 言いたいことは決まっている。私は今日一日で感じた彼への要求を、こうまとめることにしていた。


「これから色々あるだろうけど、さ。思うことがあったり不満があったりする時は、ちゃんと話そう。……私も、何かあったら言うから」


 それさえ共有できていればきっと、私たちはこれからを上手くやっていけるから。


 やがて彼は小さく「ああ」と頷き、そしてはにかんだ。

 彼からの言葉はその一言だけだったが、今はそれで十分だ。元々がつかず、語らずの関係なのだから、そういうことはこれから続く時間の中でゆっくりと築いていければ良いと、そう思う。

「改めて、これからもよろしくな」

「……ん」

 こんな話に持っていったのは私なのだが、真っ直ぐな瞳に何故だか急に恥ずかしくなってしまう。思わず目を逸らし、「この本、私の鞄にしまうよ」と自分のトートバッグに手を伸ばす。


「あ、それ」

 大樹が驚いたような声を上げるので、何かと思って動きを止める。このガイドブックにまだ何かあるのだろうか。

 しかし彼の視線は本ではなく、私のトートバッグに向けられていた。もっと言えば、そのポケットから出ているものに。

「どこで見つけてきたんだよ、そんなの」

 それは、午前中に有紗さんからもらったナウパカの花だった。少しくたびれてはいるが、花弁を散らすこともなくきちんとその形を残してくれている。

「ああ、これね……」

 花に触れ、ポケットから出しつつその経緯を話そうとすると、彼も自分の鞄を手にして何やら中を探り始めた。

 そしてそこから出てきたものを見て、今度は私が驚く。


 鞄に入れていたからだろう、茎は折れているし、花弁も何枚か落ちてしまっている。しかしそれは確かに、私が持つのと同じ半分の花であった。違うのは、その花弁の大きさ。彼が手にするそれは、大振りで鋭い形——山に咲くと聞いていたものだ。


「何で……?」

「俺は、もらったんだけど」


 誰に、という問いは野暮だろうか。そんなことをしそうなのは一人しか思い浮かばないが、念のために訊いてみる。大樹の答えた名前は果たして、私が考えていた人のそれと同じだった。

「澪奈を探している時にな、たまたま会ったんだ。確か、昼過ぎだったかな」


 彼がその人に会ったのは、ワイキキストリートを駆けている時だった。事情を説明し、一人で飛び出していった私を見つけたら教えて欲しいと伝えた際、彼女は道端の草むらから一輪の花を摘んで彼に差し出すと、こう言ったのだという。


 ——これ、山に育つって話したナウパカの花です。もともと山間部にしか咲いていなかったのに、いつの間にか街中でも見られるようになったんですよ。時間はかかったかもしれないですけど、この子は離れ離れになった彼女が待つ海のすぐ傍まで来ているんです。……だから何だって訳じゃないですけど、きっと大丈夫。たとえどんなに離れていたとしても、巡り会うべき人とは必ず再会できるはずなんですから。


 彼が話す言葉の端から、頑張ってくださいね、と笑う彼女の顔が見えるようだった。

 まったく、あの人は……

 大樹が不審そうに「どうした?」と訊いてくる。よっぽど変な顔になっているのだろう。多分、泣き笑いみたいな感じに。

 やっぱり私は、彼女に敵いそうもない。


「何でもない。——それよりも、ねえ」

 私は花を持った手を軽く掲げ、前に差し出した。初めはきょとんとしていた大樹だが、それが意図することを察したのか、「ええ?」と照れたように言う。いつもなら私もその反応に照れて手を引っ込めてしまうところだが、今日は引かない。引いてやらない。ずいとさらに手を伸ばし、「ん」と催促する。

 やがて彼は「柄じゃないんだがな……」と諦めたように呟きつつ、私がそうするのと同じように花を掲げた。


 私が持つ花は萎れてきていて、彼のは折れて千切れている。見るからに不恰好で、歪な二輪だ。お世辞にも綺麗と言えないが、むしろそれが私たちに相応しいように思えた。汚くて傷付いていて、歪な形の半分であるからこそ、これから長い時間をかけて一つになり得るのだと、そんな気がするから。



 雨に濡れる時もある。

 風に吹かれて離れかける時もあるだろう。

 そして、やがては枯れ果てる。


 でも、最期の一瞬が訪れるその時まで、私は彼の隣で咲いていたい。

 今は、そう強く思うのだ。



 花を挟んで、大樹と視線が重なる。その空のような瞳の奥に無言で微笑みかけると、彼も照れた顔で笑いかえす。


 つかず、語らず。

 されども離れず。


 これまでの時間は無駄ではなかった。ここに至ることができたというそのこと自体が証明だと、今ならはっきりと言い切ることができる。

 だから、この決断は決して間違いなんかじゃない。

 自分で選び取った選択を胸に、私は彼と生きていこう。



 声を合わせるまでもなく、心の中で「せーの」と語りかけ。

 二人の掌の中で、一輪の花が咲いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一輪の花を、空に りつ @sop_story268

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ