ボクと「彼の人」

宮守 遥綺

すべてから見放された世界の「どん底」で

 ボクは「彼の人かのひと」の名前を知らない。

 出会ったときから一度も、誰かが彼女の名前を呼ぶのを聞いたことがないからだ。

 「彼の人」は自分を「わたし」と呼ぶし、他に彼女を呼ぶ者もない。

 もしかしたら彼女自身さえ、自らの名前などとうに失くしているのかもしれない。

 

 ボクには名前が無い。

 「彼の人」はもちろん、他の誰もボクに名前というものをくれたことがないから。

 だけど、不便と思ったことはない。

 ボクの名前を呼ぶ者を、ボクは持たないからだ。

 「彼の人」の名前をボクが呼ぶ必要がないように、「彼の人」がボクの名前を呼ぶ必要もなかった。


 「彼の人」はボクに「ねえ」と呼びかける。

 ボクも「彼の人」に「ねえ」と呼びかける。


 誰も呼ぶことがない名前なら、それには記号以上の価値はない。名前は呼ばれることによってその価値を増す。呼ばれない名前に意味などない。

 すべてから見放された世界の「どん底」―――。

 そこにたった二人で身を寄せ合うボクたちには、名前など初めから必要がなかった。




 目が覚めると「彼の人」がいなかった。

 隣で膝を抱えて眠っていたのに、いつの間にいなくなったのだろう。全然気が付かなかった。相変わらず気配の薄い子どもだ。

 やれやれ、と欠伸をひとつ。

 立ち上がると切なく腹が鳴いた。

 昨日は雨で飯が食べられなかった。「彼の人」もきっと、腹を切なくさせて此処を離れたのだろう。寝ていたボクを置いて。


『全く……ひどい人だ』


 家族でもなんでもないボクに、「彼の人」がかかずらう必要は、確かに何処にもないけれど。

 一度大きく体を伸ばし、歩き始めてから気が付いた。

 遠くで、ゴウゴウと大きな車の音がしている。

 なるほど、今日は掃除屋が来る日だったようだ。

 掃除屋は、唸り声を発する大きな車で定期的に街の中を回っては、そこに暮らす人々が「ゴミ」と呼ぶモノを車の中に放り込んでいる奴らのことだ。それが何処に行くのかをボクは知らないが、その「ゴミ」が宝の山であることは知っていた。

 少しだけカビの生えたきれいなパン、野菜の芯、硬くなった菓子……。

 ボクや「彼の人」や「どん底」の住人では手に入れるのがとても難しい「きれいなモノ」が「ゴミ」の中にはたくさんある。

 しかしこの「ゴミ」は掃除屋が来る日にしか手に入らない。

 だからボクも「彼の人」もその他の住人も、掃除屋が来る日には早く起き出して、掃除屋が来る前に「ゴミ」の中を探った。

 何か、この切なすぎる腹を満たしてくれるモノを探して。


 掃除屋が来る日、「彼の人」は必ず食べ物屋が並ぶ細い路の、その裏側にある更に細い路地にいた。そこには「ゴミ」が入った大きな「ゴミ箱」がいくつかあって、「彼の人」はそれをいつも端から順に検める。曰く、ねぐらの多い所から少し離れた場所故、来る人が少なく、食料などが手に入る確率が高いからとのことだ。

 足取り軽くその場所に向かう。

 日が出ていても薄暗い路地に入ると、いかにも重そうな金網の蓋を持ち上げる、真っ白でか細い腕が見えた。近づいていくと、ゴソゴソと耳障りな人工物の音が大きくなる。細い小さな体の上半分がすっぽりと箱に入ってしまっている。頼りなく宙に浮いた傷だらけの裸足が、パタパタと空気を掻く。

 狭い空を泳ぐ骨と皮ばかりのそれをしばらくじっと見上げた。

 雲よりも何処か生々しい白が、朝の爽やかな青空に不釣り合いに映えている。傷だらけでボロボロの汚れた足は、「彼の人」の一部でもあり、すべてでもあるようだった。


「よっ……と」


 生々しい白が急にクジラの尾鰭おびれのように振り上げられ、次の瞬間には足として地面に着いていた。彼女はボクに気づいていないようで、ガサガサと音が鳴る袋を左手に引っ提げて、近くに脱いであった大きすぎる靴を履く。少し前に拾ったばかりの穴だらけの大きな靴は、それでも「彼の人」の足を少しは守ってくれているようだった。


『寝坊してごめんね』

「あれ、来たの。寝ていても良かったのに」


 声をかけると、やっと「彼の人」はボクに気が付いたようだった。

 ほんの少しだけ眼を大きくして、しかし声ばかりはいつもの平坦な調子のままだ。そこにはいつも通り、色がない。

 街を歩く人も「どん底」の住人たちも。ボクが見る「彼の人」以外の人々は皆、声を立てて笑ったり、涙を流したり、弾むような声を出したり、鋭く大きな声を出したりした。皆、いろいろな形の顔といろいろな色の声を持っていた。

 誰かはそれを「感情」だと言った。「表情」だと言った。

 育つ環境が違っても、与えられるモノが違っても、どんな形であれ人間である限り必ず育まれるモノだと。

 ならば「彼の人」は一体何なのだろう、と思う。

 ボクは「彼の人」の声を、顔を、ひとつしか知らない。


 塒にしている、捨てられた小さな物置に戻ると、「彼の人」は袋の中から小さなパンの端や元気のない野菜なんかを取り出した。それを欠けた皿に乗せ、ボクと自分の前に置く。

 

「水を持ってくる」


 薄汚れた子ども用のプラスチックカップを二つ手に持って出て行く「彼の人」をボクは追いかける。いつものことだから、彼女は何も言わなかった。

 昨日の雨で濁りきった川の水を「彼の人」が二つのコップにすくう。

 コップに並々と掬われた水もやっぱり濁っていて、「彼の人」は明日辛い思いをするかもしれない、と少し不憫になった。こういう水を飲んだ次の日、「彼の人」は必ず腹を痛め、何も食べられなくなる。それでも他に飲めるモノなどないのだから仕方がないのだ。


 川縁かわべりからは、空に向かって伸びる大小様々な建物が見える。

 太陽の強い光が建物の窓に反射して、街は光り輝いていた。

 白い光に包まれた豊かな世界。

 清潔な空の色しか知らない人々が暮らす世界は、今日も眩しく残酷に光っている。

 この「どん底」は清潔な空を保つためにあの街が捨てた「ゴミ」でできている。

 ボクも「彼の人」も他の住人も、皆。

 

 何の足しにもならない名ばかりの「食事」を終えると、「彼の人」はボクに向かって「おいで」と言って腕を広げた。

 今日は仕事にありつけなかったらしい。

 ボクが何も言わずにその腕に身を預けると、「彼の人」は何処か満足そうにして、堅い床に横になった。


 「彼の人」はボクを抱くのが好きだ。

 ボクも「彼の人」に抱かれるのが好きだ。

 

 彼女の痩せぎすの腕や体は、抱かれると骨ばかりが当たって決して心地良くはないけれど、そのほんのりと微かに伝わる暖かさと静かな心臓の音はとても心地良い。

 そろりと彼女を見上げると、疲れ切ってしまったのか、ゆるゆると微睡まどろんでいるようだった。

 外からはいつも通りの大きな怒鳴り声やケンカの音が聞こえる。

 この狭く暗い物置の中だけが、世界から切り取られたように静かで、穏やかだ。

 「彼の人」の息づかいと心音と、ボクの呼吸と心音。

 二つの微かな命の音だけが、ひっそりと此処にはある。

 ゆっくりとなった「彼の人」の呼吸に、ボクは彼女が夢の世界へと行ってしまった事を知る。

 閉じられた瞼を見上げて、ボクは小さく問いかけた。


『どうして、君はボクを拾ったの』


 何度も投げかけた問いだった。

 答えが返ってきたことは一度もないけれど。

 

 何故、「彼の人」はボクを拾ったのか。

 他の子どもたちのように、同じ「どん底」の子どもたちと助け合って生きるのではなく。

 何故、ただの痩せぎすの野良猫を拾ったのか。


『ボクといるよりも、他の子どもたちといた方がずっとずっと、君は楽に生きられるはずなのに』


 ボクの言葉は届かない。

 知っている。

 ボクと「彼の人」の言葉は違う。

 「彼の人」は人間で、ボクは猫だ。

 それでも、問いかけずにはいられない。


『どうして、ボクだったの』


 小さく紡いだ言葉は彼女の呼吸と混ざり合って、溶け合って。穏やかな空気の中へと散らばっていく。

 外から聞こえる喧噪だけが、このふやけた空間でハッキリとした形を持っていた。

「彼の人」のゆっくりとした心音が、ボクの意識を解いていく。

 喧噪が、遠くなる。


 もしも本当に、人々が言う「神様」なんてモノがいるのなら。

 どうか、「彼の人」を愛してください。

 「彼の人」を人間にしてください。

 もしもそれができないなら。



 せめて、夢の中だけでも、笑えるようにしてあげてください。



 そんなことを願っているうちに、ボクの意識も夢の中へと旅立っていた。






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ボクと「彼の人」 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori

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