第46話 めざめ

 予想通りというか、八年の歳月は人を石のように変えてしまうらしい。思い通りに体を動かせるようになるまで、相当な苦痛と時間を要した。だが、彼女の支えがあったので、辛くはなかった。

 脳医学的なストレスもあった。長い間スリープ状態だった俺の脳は、突然の負荷に耐えられず悲鳴を上げた。その副作用は頭痛や吐き気として現れたのだが、それを乗り越えられたのも彼女のおかげだ。

 そして本日、退院の日を無事迎えた。目覚めた当初は奇跡の生還とかなんとか周りが騒がしくて大変だったが、最近そんな様子は何処にもない。人の噂も七十五日というやつなのだろう。

 お世話になった病院関係者に挨拶をして花束を貰った。彼女の車に乗り込み里原記念病院をあとにする。季節は夏。照り付ける太陽。暑さに汗が噴き出した。


 愛知で父親が買った家に近付く。ブロック塀越しに見える日本家屋。視界に入った風景に目を走らせる。道沿いの駐車スペースに車を停め、屋根付きの小さな門をくぐり玄関へと向かう。

 玄関先に人の姿。扉にもたれ掛かっていた少女がこちらに気付く。

 艶のある黒髪。ストレートの先端内巻きショートボブ。顔は色白で、すっとした鼻筋の下には薄い唇。まろみたいな短めの眉が目を引く。

 黒目がちな瞳で吸い込むような眼差しが、こちらに向けられる。Tシャツにショートパンツが良く似合っている。すらりと伸びた足の先にサンダルを引っ掛けていた。

 どこかそわそわしている。俺は立ち止まる。首に巻いたチョーカー。中央にぶら下がる黒いスペードの飾りが揺れていた。

 俺は微笑む。というか、にやけていたらしい。少女は口を尖らせる。

「……どうしたの? なにか、おかしい?」

「いや。嬉しいんだ」

「うれ……って、勘違いしないでよね。別にわざわざ、待っていたわけじゃないんだから」

 そう言っているわりには首筋に汗が滲んでいる。

「はいはい。ただいま、すのり」

 俺は頭を撫でる。首をすぼめるも嫌がってはいない。

 そして、もう一人が開いている扉の奥から顔を覗かせる。

 深みのある琥珀色の髪。ふんわりセミロングは先端にゆる巻きが入っている。健康美を感じる、やや褐色の肌。つぶらで淡い色の瞳に厚い唇。ふっくらした顔立ちに、尖ったキュートな顎。愛らしさが溢れ出しそうな少女は満面の笑みを浮かべていた。

 同じくTシャツにショートパンツ。ふくよかな胸元の上。こちらのチョーカーにはピンクのハートの飾りが輝く。

「予定より少し遅かったですけど……体、大丈夫ですか?」

「ああ、ありがとう。大丈夫だよ、かおれ」

 すのりを撫でつつ、反対の手をかおれの頭に伸ばす。

「おうっ」

 合わせたかのように抱き付いてきた二人。俺の胸に揃って顔を埋める。振り向いて彼女を見遣ると苦い表情で半眼になっていた。とはいえ、怒っているわけではなさそうだ。

「ずっと、そうしたかったみたいよ。病院ではできないでしょ」

「違うわよ」「そうです」

 素直じゃないすのりと素直なかおれ。顔をくっ付けたまま、ごにょごにょと言った。久々に聞いたシンクロ返事。言っていることは正反対だが、俺にとってはどちらも喜びでしかない。

「さあ、二人とも。治人を家に入れてあげて」

 声が掛かると、今度は俺の両手をすのりとかおれがそれぞれに引っ張る。

「治人のために、いろいろ揃えたんだからね」

 すのりは意気揚々。

「気に入ってもらえると嬉しいです」

 かおれも声が弾む。

「分かった、分かった」

 俺は後ろを振り返る。珠乃は黙って笑顔で頷いていた。


 昏睡状態だったこの体に瓶子は使われていない。なにがどうなってこうなったのか、今のところ分かっていない。どうやら、世のもつれに関しては、ほどけると同時につくろわれていたようだ。その証が、この記憶となって現れている。

 病院で目が覚めた俺。それは、綱張神社での一連の出来事により、結果的に珠乃に別れを告げた俺だった。本来の俺の世界線がどうなっているのかなど知る由もないが、それが昏睡状態だった方の俺に宿ってしまっているのは確かだ。自我と記憶の上書き? コピー&ペーストみないなものだろうと勝手に解釈している。

 逆に昏睡状態だった方の俺の記憶だが、ずっと眠っていたのだからほぼ無いに等しい。高校二年の夏、キャンプ場で事故が起きる時点までは同じだった。違いがあるとすれば珠乃が川遊びで溺れたことや、それを助けた行為を覚えているかいないか。その程度の差くらいだ。確かに珠乃が溺れかけたことはあったが、そこまでのこと。

 もちろん、この事実を知っているのは珠乃とうちの神使たちだけ。川の事故の詳細は珠乃から聞いて記憶に補填済み。なので、岐阜から俺の目覚めを知って駆け付けてくれた彼女の両親との会話も問題なくやり過ごせた。

 この結果は自分を戒めてきた珠乃にとっても、大いに救われるかたちとなった。とりあえずはハッピーエンドと言いたいところなのだが、能天気にしてもいられない。

 父親の仕事の都合で愛知に引っ越して、一生懸命勉強して大学を卒業し希望の会社に就職した、という俺の実績はこの世界線には存在しない。頑張って働き、稼いで集めた釣り道具も車も記憶に残っているだけだ。

 眠りから覚めることができたのは奇跡なのだが、俺は高校も卒業していない無職の男になってしまった。冷静に考えて、この現状は焦る。

 だからといって悲観しているわけではない。なんといっても珠乃と一緒に居られるのだ。それだけで十分。彼女への想いは、この程度で揺るがない。すのりとかおれだっている。

 この世はいろいろ起こるものだ、俺みたいに奇々怪々なパターンは少ないかもしれないが、必然なんてことはないはずだ。奇跡のような一期一会によって、今の関係になっているとすれば。これは喜ぶべきだと思う。


「――お、なにこれ」

「快気祝いよ。治人の好物を揃えたんだからね」

 居間の座卓に並べられた料理を前に、すのりがどうぞとばかりに手を広げる。

「かおれちゃん。お吸い物、温め直すの手伝ってくれるかな」

「はーい」

 そう言って珠乃とかおれは台所に向かう。

 俺が病院でリハビリに励んでいる間に、皆でこの家を俺が住めるようにしてくれていた。ともかく、父親が残してくれたこの家がある。貯蓄に関しても遺産として相続したものがある。違う世界線の俺の時は、働いていたので手を付けるつもりもなかったが、今となっては感謝しかない。

「治人、座って」

 すのりが肩を押してきた。なんだか、俺以上に喜んでくれているみたい。最初の頃より随分くだけてきている感じがする。ツンデレはやっぱり設定だよね。ほんとはとても素直ないい子なのです。

「あっ、そうだ」

 台所から戻った珠乃だが、すぐに隣の部屋へ。

「珠乃さん、食べますよ」

 先に座ったかおれが声を掛ける。

「ちょっと待ってー」

 返事が飛んできた。

 場をつなぐ感じで、かおれが俺を見てにっこり笑う。相変わらずの愛らしさだが、可愛らしさ以上に母性的な印象が最近増している。変な意味ではない。要は肝っ玉母さん風なキャラが俺の中で確立しつつある。

 などと考えていたら、珠乃が戻って来た。

 その手にあったのは見覚えある釣り道具。間違いない、俺が初めて買ったフライフィッシングのタックルだった。彼女はそれを俺に差し出す。

「どうして、これを珠乃が?」

「幸島のおじさんが家を引き払う時に、あなたの部屋に残されていたのを見付けて私が預かったの」

「ああ、これなら今も持って……いや、無いね」

 珠乃は苦笑い。

 高校生の時から長い間使った想い出の釣り道具だが、俺のそれとは違う過程を歩んでいるということか。

「感慨深いね。唯一残っているタックルか……でも、珠乃が預かっていたって……あれ」

 ロッドの持ち手のコルクグリップ。握る部分が薄黒く滲んで汚れていた。長年使い込まないとこうはならない。

「ああ……」

 過去の思い当たる節が、今になって回収された。

「……珠乃さん。もしかして、これを預かってからFFを始めていたんではないですか? それも、かなりやり込んでいた……違う?」

 珠乃は渋い顔で目をしばたたかせる。そんな頓狂な仕草も嫌いではないが、指摘は当たっているようだ。

 納得した。思い当たる節というのは、釣りに関わる言動。妙に理解があるわりには、やたら釣り人に厳しかったからだ。それは気持ちの裏返し。楽しんでいる俺やその周りに嫉妬していただけなのだ。

「でも、なんで? 隠す必要あった? 一緒にやればいいだけだったと思うんだけど。俺が嫌がるわけないでしょ?」

「梛乃は、そういうの得意じゃなかったでしょ……」

 彼女は少し俯いてばつが悪そうにした。

「……うん。だね」

 とことん梛乃を演じていたってことか……ある意味律儀というか。

「でも、珠乃の部屋にはこれも含めて、釣り道具なんて影も形も無かったけど?」

「近所の貸しコンテナ倉庫に……」

 珠乃はボソッと言った。

 なるほど、徹底してますな。流石と褒めておこう。なら俺から提案することは決まっている。

「じゃあ。俺が足りないものを揃えたら、すぐ釣りに行こう! 今はイワナの季節、まだ間に合う」

 珠乃は突然の誘いに驚いた顔をしていたが、釣り好きの俺だからこの展開になることは予想して欲しいものだ。

「うん、いいよ。行きたい、治人と」

 なんてこった。珠乃と釣りができる。全ての不安要素が何処かへ吹っ飛んで行った気がした。

 ふと、横から熱い視線を感じる。話題に早くも食い付いた神使たちだった。俺は期待に応えて頷く。

「もちろん、すのりとかおれも一緒だよ」

 久しぶりのお出掛け案件。柴犬の美少女神使たちはその瞳を輝かせた。


 やっぱり、『フライフィッシングは柴犬つれて』ですよ。

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