第45話 ほどけ

「危ない!」

 叫び声を発したのはすのり。こちらに向かって走り出していた。

 その時、肩を後ろから強く押される。私は弾かれるように前のめりで飛ばされた。振り返る先に治人の顔。よろけて地面に転倒しかけた私を、すのりが滑り込んで受け止めた。

 まるで雪崩だった。

 大きな杉のてっぺんからドミノのような雪の崩落。巻き込まれた枝が折れる音。激しい雪煙。一瞬にして下に居たはずの治人が見えなくなった。この地域では珍しい大雪。だけど、こんなこと……

 次に目の前に現れた光景に愕然とする。雪に埋もれた治人。かろうじて足だけ見えていた。

「治人? え、嘘……」

 私は頭が真っ白になる。色香神使も唖然としていた。

 すのりとかおれは冷静だった。雪山に飛び込み両手で雪を掻き出し始める。私も我に返りあとに続いた。

 頭の部分の雪が多い。このままでは窒息してしまう。しかし、掘り出して見えてきたのは最悪の状況。太い枝が彼の体に伸し掛かっていた。枝を排除し一本杉から彼を離す。

 私が脱いだダウンジャケットを下に敷いて、三人がかりで仰向けに寝かせた。意識がない、呼吸も脈も確認できない。頭部から滲むような出血。

 今度は目の前が真っ暗になった。パニック状態になりそうな自分を抑える。私は治人の顎を持ち上げ気道を確保、鼻を押さえ彼の口に自分の口を重ねた。人工呼吸を施してから心臓マッサージを繰り返す。

 私は手を動かしながら、かおれを見遣る。

「私のバッグから、携帯を!」

「――もう救急車を呼んであるわ。神社のAEDも取りに行かせている」

 こちらを横目にブロンド神使を介抱していた色香神使が横に立ち言った。ブロンド神使がいないので、AEDを取りに行ってくれているらしい。

「あえて言うけど、故意ではないわ……」

 色香神使は呟いた。今はどうでもいいと思った。ただ、休戦状態としてくれていることには感謝した。

 呼吸も脈も回復する兆しがない。私なんかの付け焼刃の蘇生では役に立たない。どうしよう、徐々に血の気が引いているのが分かる……いや違う。私はギョッとした。

 気配が薄くなっている。出会った頃の幻影の治人を見るのと同じ感覚。もし、このまま世のもつれがほどけてしまったら。治人が元気でいるはずの世の彼が死んでしまう。また、私のせいで治人を不幸にしてしまう。

 私はバッグを探した。崩れた雪の横に見付ける。這うようにしてそれを掴み自分に引き寄せる。

 もう我がままは言いません。一緒に居られなくたっていい。彼の命だけは助けて。そう心で叫びながら、バッグから瓶子と小さなボトルの日本酒を取り出した。

「珠乃さん。それは……」

 かおれが囁く。忠告を意味していた。瓶子についての詳細は聞いていない。それは、もう一人の治人に使えなくなる可能性があることを意味する。

「いいの。今はこれしかないの」

 心情を察してくれたかおれは沈黙した。すのりも横で心配そうに見ている。

 私は日本酒のキャップを開け、小刻みに震える手で瓶子にお酒を注ぎ込んだ。

「すのり、かおれ。手伝って」

 二人にサポートしてもらい、治人の上半身を起こした。口に瓶子を近付けてみたものの、この状態で飲ませるのは無理だった。

 私は瓶子を傾け口にお酒を含んだ。そして、治人の唇に自分の唇を押し当てお酒を流し込む。一拍置いて、彼の喉が鳴った。

 刹那の安堵。だが、すぐに変化はない。

 もどかしいと感じながら、すのりとかおれを見遣る。二人も気持ちは同じ。私の口から吐息が漏れた。あとは願うしかない。彼を抱きしめたまま奇跡を待った。

 気付けば、色香神使と共にブロンド神使がこちらを見下ろしていた。肩にはAEDの入ったバッグを掛けていた。

 ブロンド神使は目を細めて怪訝な顔。

「なに。それで、どうなってる?」

 色香神使が答える。

「あとで詳しく話すから、今は――」

「ごほっ!」

 咽び声。驚いて治人を見ると目が合った。続けて咳き込んだ彼だが、暫くして治まった。

 彼は状況を理解できていない様子で、キョトンとした表情。

 私は安堵の溜息をついた。途端、込み上げるものが抑えきれず、治人を強く抱きしめた。涙が止まらなかった。

 しかし、喜びは続かなかった。私たちを照らしている照明の影……治人だけ無かった。

「そんな……」

 頭の片隅で判っていたはずなのに出た言葉。世のほどけが止まったわけではない。刻限が来ていた。いいえ、瓶子を使えば世のもつれはほどける。

 呆然とする私の横で、しばらく周りを見渡していた治人。

 一本杉の下の雪山。頭に残った血の痕跡、でも傷は何処にもない。横に置かれた瓶子と日本酒のボトル。口に残るお酒の風味。そして私の表情。

「そういうことか……」

 現状から理解した様子。

 だけど、戸惑いはないみたいだった。治人は微笑みながら顔をしかめた。悲しい表情ではない。落ち着いている。

「それで、俺は消えてしまうのかな……お、本当に影がない。珠乃の話の通りだね」

 何も言えなかった。治人は立ち上がり、私を引き起こす。敷かれていたダウンジャケットを拾い私に羽織らせる。

「あまり余裕はないみたいだね。実はこうなることもあるだろうって思ってたんだ。最後くらいはカッコいいとこ見せたかったんだけどね。結局すのりとかおれに頼っちゃったし」

「ううん。私を助けてくれた」

「うん……だね」

 治人は照れるように頬を指でかいた。

「さて。話したいことはいっぱいあるけど、これだけ言っておくことにする。

 珠乃。君と過ごした時間は俺にとって掛け替えのないものだった。こんなに幸せを感じたことは他にない。本当に感謝してる。だから、この関係が終わってしまうのは悲しいけど、珠乃にとってこれが後悔であって欲しくない……いい?」

「うん。分かった」

 彼の言葉は私の心を落ち着かせた。

「あと。悪いけど、すのりとかおれのことを頼む」

「大丈夫よ」

 私が頷くと、治人はすのりとかおれに向かって手を広げる。二人は彼にそっと寄った。

「ごめん、なさい。私、命令を達成できなかった……」

 すのりが言葉を詰まらせる。

「すみません。私のミスです……」

 かおれも肩を落とす。

 二人は瞳に一杯の涙を溜めて治人を見上げる。

「いいよ。気にするな、お前たちは最高の家族だった。今までありがとう」

 すのりとかおれは治人にしがみ付き、むせび泣いた。私は彼の首に手を掛け、その胸に額を当てる。覚悟を決めた。

「治人……今まで、ありがとう」

「うん。ありがとう、珠乃。楽しかったよ」

 徐々に彼の存在が消えていくのが分かった。こんなに呆気ないなんて。言いたいことはたくさんあった。でも、言葉にはならなかった。

 だから最後の時間は、すのりとかおれと共に彼を感じながら、このままでいよう……そして、後悔は決してしないと心に誓った。


 静まり返った境内。一本杉の上。夜空には雲一つ無く、綺麗な星たちが瞬いでいた。

「……さあ、行くわよ」

 そう言って踵を返した色香神使。あとを追うブロンド神使。

「あれ? 救急車は?」

「とっくに、ごめんさいして断ったわよ」

「あ、そう……で、いいのかよ。このまままで?」

「ええ。綱張さまへの御用はもうないわけだし」

「こっちは、やられっぱなしで気分悪いんだけど」

「それは、あなたが弱いから悪いんでしょ?」

「だってさ、ありえん強さだし。あれ化物だよ。なんなんだよ、あいつら」

「そうね……本当に、なんなのでしょうね」


 治人は消えてしまった。

 綱張神社の境内には、なにも残らなかった。彼の足跡さえも。唐突な幕切れ。悲しいのは同じなのだけど、すのりとかおれのしょんぼり加減が酷くて二人を慰める。

 主人のひとりを失くした忠犬たち。この子たちに変化はない。世のもつれと木曽の水神さまが神使を遣わせたこととは関係ないと考えるべきなのかな。

 ともかく、私にはやらなければならないことがある。くよくよしてはいられない。本来の状態に戻っただけなのだから、と自分を鼓舞する。

 足元の瓶子と日本酒のボトルを拾いバッグに詰めた。二人を連れて綱張神社をあとにする。

 駐車場まで戻って来て気付く。車が無い。私は納得する。世のもつれで起こった実体化。治人と共に彼の私物も無くなるのは当然。タクシーを拾うために、近くの幹線道路までとぼとぼ歩いた。


 治人の家に帰って来て更に確信する。

 ここも同様の変化が起こっていた。いえ、起こっていた変化が元に戻ったと言うべきなのかも。彼の私物は一切無くなっていて、幸島のおじさんが住んでいた時に近い状態になっていた。それなのに、私の私物はあって、すのりとかおれの物も残されている。

 すのりとかおれを連れてきたのは治人。この状況はどう考えていいのか。とはいっても、世のもつれがほどけた世界線を把握するのは簡単ではなさそうだった。

 治人が居なくなったショックを自制する気持ち。これからのことを考えようとしたが、心身ともに限界で頭が回らなかった。いろいろあり過ぎて疲れた。とりあえず、すのりとかおれを休ませるため二人の寝室として使っている部屋に向かった。


 遠いところで、なにかが鳴っていた。それが徐々に近付いてくる。やがてアラームだと気付く。私は驚いて体を起こす。窓から注ぐ日差しに瞬きをした。

 畳に敷かれた布団の上。横にはすのりとかおれ。穏やかな寝顔を見せている。昨夜、二人を休ませようとして自分も眠ってしまったらしい。アラームを止めるため携帯へ手を伸ばす。

 ふと、思い立って私は飛び起きた。居間へと向かう。しかし、そこに治人の気配はなく、昨夜見た風景と同じだった。彼が存在していた痕跡はなに一つ残っていない。本当に世のもつれが終わってしまったのだと自覚する。

 頭を整理してみる。気になっていたのは瓶子のこと。綱張神社での事故で治人に使ってしまった……まだ、病を癒す力は残っているのかな。

 でも、あの判断を後悔してはいない。病院の治人を救うチャンスを失っていたとしても、私はその過ちを受け入れる。そして、一生治人を支え続ける。


 今日は会社を休むことにした。かおれを起こし、すのりと暫く留守番するようにとお願いした。

 私は瓶子を持って里原記念病院へとタクシーを走らせた。もう迷うことはない。すぐに治人に瓶子を使い、あとは成り行きを見守るしかない。

 病院に到着しエレベータで上がる。いつものようにナースステーションの看護師さんに挨拶しようとしたが誰もいない。早朝だからと思ったが、同時にフロアの奥に人だかりを見付けた。治人の病室の前だった。胸騒ぎがした。

 私は足早に駆け寄る。集まっていたのは顔馴染みの看護師さんたち。不安が頭を過る。治人に取り返しのつかないことが起こっていたらどうしよう。昨夜あんなことがあったのだから、もう一人の治人に影響がないとは限らない。思い至らなかった自分を責めた。

「鷹宮さん。あの……」

 看護師の一人が私を見付けて言った。動揺している。言葉が続かない様子。私は構わず病室に入る、別の看護師さんとすれ違った。

「すぐに、当直の先生を呼んできます!」

 足早に出て行くのを見てから、私は治人が居るはずのベッドへ視線を向けた。

「……」

 朝の光で部屋が輝いていた。ベッドの端に腰掛けている青年が眩しそうに目を細めている。パジャマ姿のその人が、ゆっくりとこちらを向いた。

 私を見て言う。いつもの笑顔だった。

「おはよう、珠乃」

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