ガチグルメ

闇世ケルネ

ガチグルメ

 ビル立ち並ぶビジネスエリアは、昼休みに差し掛かっていた。

 汗水たらして日々働く企業戦士に許された一時の休息。仕事の手を止め、食事を摂りに出る時間。外の歩道には、既に友人とお喋りしながら歩くOLや早くも飲み会の段取りを相談する中年たちが闊歩し始めている。

 そして居並ぶ建物の一階から、その雑踏へ歩き出て来る男が一人。どんよりとした垂れ目がちの目をした、うだつの上がらぬサラリーマンは、ブツブツとぼやきながら昼休みの雑踏に交わった。

「畜生……何が即戦力だふざけやがって……」

 うつむき、暗い口調で独り愚痴を言うこの男の名は飯田タカヒロ。年齢実に35歳のしがないサラリーマン。地位が高いわけでもなければ、高収入があるわけでもない。務める会社は中の下企業。特に誇れる過去はない。

 何重枚もの非採用通知を重ねてようやく手にした職ではあるが、飛びぬけて成果を出しているわけでもなく、ギリギリの成功と失敗を繰り返しながらなんとかしがみついている状態。最近は若者に抜かされがちだ。

 ずっとこのままで居たら、どうなる? 答えはわかりきっている。飯田は将来の不安と、冴えない自分への不満を毎日のように募らせていた。だが、どうしようも無いのである。

(とにかく、飯でも食うか……なんか適当に、安いやつ……)

 飯田は内心一人ごち、スーツの内ポケットをから一枚の紙を引き抜いた。チケットサイズの大きさをしたクーポン券である。行きつけの牛丼チェーン店のものだ。提示すれば無料で唐揚げや生卵が受け取れる。

(これを使ってなんか食おう……適当に唐揚げでも……)

 待っていた信号が青になり、笛の音めいたサウンドを断続的に響かせる。

 はっと顔を上げた飯田は足早に歩き、対面から来る人をかわしたり、前を歩く人を追い越したりしながら先を急いだ。

 向かう先にあるのは、どんぶりチェーン店『加味卵』。安さとメニューの数、そしてサーブのスピードに定評がある。どんぶりチェーンは多く存在するものの、どこにも引けを取らない人気の店だ。当然、昼飯時は混む。

(時間は……)

 飯田は少し焦りながら、腕時計に目を落とす。11時半ちょっと過ぎ。これから混み始める時刻だ。飯田は開きかけの自動ドアを半身になってすり抜けた。

(よし、間に合った。とっとと食っちまおう)

 素早く券売機の前に滑り込む飯田。背後には一人、また一人と列ができ始めている。券売機は液晶型だ。飯田は素早く『どんぶり』をタッチし、画面が切り替わるなり一番安い牛丼をタッチ。用意していた小銭を入れる。

 会計はすんなり終わり、券売機が『牛丼(並)』と書かれたチケットを吐き出した。これを手に券売機を離れて席へ向かう。

 加味卵の店内はUをタテに引き伸ばした形のテーブルが二つ設置され、端に四人以上で座る席が用意されている。U字の左右に客が向かい合って座り、内側を店員が移動しつつ配膳などを行う合理的形状だ。

 飯田は店員に声をかけられるのを待たず店の奥、一番端っこの席に陣取り、チケットとクーポンチケットをテーブルに置く。ほどなくして店員が来た。

「はーいありがとうございまーす。チケットとクーポンお預かりしますねー」

「クーポン唐揚げ、あとお茶」

「はぁーい」

 二十代ほどの女性店員はチケットの半券をもぎ取ると、素早く緑のタンブラーを飯田の前に置いた。飯田はその中身を呷る。これは水出し緑茶。加味卵特有のサービスで、無料でいくらでも飲める。

(ふう……ようやく飯の時間だ。ま、牛丼なんてすぐに……)

「はーい牛丼お待ちしましたー。ごゆっくりどうぞー」

 飯田の独白が終わるより早く、漆塗りの四角い盆に乗った牛丼が飯田の前に現れた。頼んだ通りの並盛牛丼。傍らには小皿に盛られた唐揚げが三つ。飯田は割り箸箱から一善取り出して割った。

(よし来た。さっさと食っちまおう)

 飯田はそそくさと牛丼に箸を差し込み、一口ほおばって緑茶で飲み下した。タンブラーはもうカラになってしまう。飯田は店員を呼ぼうと片手を挙げかけ―――ふと、対面の席を見やった。

(ん……?)

 店員が行き来する通路を挟んで、ちょうど向かい。金髪にダークブラウンのメッシュを入れた、派手な青年が座っていたのだ。

 座っていてなおわかる背の高さ。耳を飾る銀のピアス。目つきは鋭く、ガラの悪い雰囲気をしているが、両手を膝の上に置き背筋を伸ばした姿は育ちの良さを感じさせる。目の前には蓋がされた漆塗りの箱。

(なんだ? あんなメニュー、あったか……?)

 一段しかない重箱めいた器を遠くに見ながら訝る飯田。しかし青年は飯田の方を全く気にせず、慎重に重箱の蓋を両手で挟み、ゆっくりと持ち上げた。ふわりと一瞬広がる湯気。飯田は目を見開いた。

(うな重……だと……?)

 蓋に覆い隠されていたのは、かば焼きにされたウナギの切り身。下には錦糸卵がクッションになり、一緒になって白飯に覆い被さっている。湧き立つ蒸気に、光を照り返すタレ。それが飯田の目には宝石箱じみて移り込む。

(嘘だろ……。加味卵、うな重も売っていたのか? そういえば今は七月……)

 飯田はチラリと手元に目を落とす。テーブルにうな重の宣伝ステッカーが張りつけられていた。同時に涼しげなすだちおろしうどんのものも。何度も来ているが、今まで全く気付かなかった。飯田は青年に目を戻した。

(だ、だが、あんな若い子がうな重を……? ごつい指輪も付けてるし、着てる服だって高そうな……だいぶ羽振りがいいように見える……。それがこんなところで、うな重を? 食うならもっと美味いところが……?)

 牛丼を食べ進める手を止めて硬直する飯田。青年はじっくりとうな重を観察すると、スマホを取り出して撮影を始めた。飯田はとたんに冷静さを取り戻し、侮蔑的に鼻を鳴らす。

(フッ、なんだ。SNS映えを狙うだけの輩か。金持ちの俺がこんなところで飯食ってますよっていう庶民アピールでもしてるんだろうな。驚かせやがって)

 飯田は黒い笑みを浮かべながら牛丼の二口目を口に放り込む。そこで緑茶のお代わりを頼み忘れたことに気づき、再び手を上げて定員を呼ぼうとし―――青年の方を見て凍りついた。

(…………あれ? 何やってんの…………?)

 スマホをしまった青年は、サングラスを―――否、眼鏡のように『掛ける』タイプのアイマスクを取り出して装着した。さらに小さな黄緑のケースを親指で開け、中から出したるものはオレンジ色の耳栓。

(え? アイマスク? え? 耳栓? ……なんで? ここは飛行機の中じゃないぞ?)

 目を丸くして困惑する飯田を余所に、青年は両手を合わせて会釈する。頂きますのポーズ。しかも周囲に迷惑をかけないスタイル。しかし飯田はアイマスクと耳栓に気を取られる。

(ま、待て。確かに正月の特番でそういうのはある。芸能人が目隠しして安物と高級品の肉とかを食べ比べる企画が! だがここはしがない牛丼チェーンだぞ!? 目の前にあるのは安いうなぎだし一個だけだぞ!?)

 雷に撃たれたような衝撃を受ける飯田。青年は割り箸を一本手に取って丁寧に割り、先端をうな重に差し込んでいく。柔らかな身に沈み込んでいく木切れを少しずつ動かして切り分け、下の白米と錦糸卵ごとほおばった。

(ふ、普通に食べてる……金持ってそうな青年が、安いどんぶりチェーン店のうな重を……普通に……)

(い、いや普通じゃない! 目隠しして耳栓して食うのは全く普通じゃない! ていうか……滅茶苦茶噛んでいるッ……!)

 青年は音もなく咀嚼をじっくりと繰り返している。アクションは少ないが、一口にかける時間がやたら長い。

(味わって……いるのか? じっくりと、ウナギを……はっ!?)

 飯田は眉間に火花が散るような感覚を覚えた。察したのだ。

(アイマスクと耳栓……まさか、視覚と聴覚を遮断し、その分味覚に集中するつもりでッ……!? 嘘だろ、ただのウナギだぞッ! 外国産の、どうせやっすいウナギだぞ!? それを、じっくりと、噛みしめるためにッ……)

 飯田の割り箸を持つ手がわなわなと震える。その双眸、取り調べ室の刑事が如し。青年は音もなくウナギを呑み込み、鼻から大きく息を吸って吐く。煙草を嗜む飯田は即理解した。ウナギの残り香を楽しんでいるのだ。

(目と耳を塞いで匂いに集中ッ……まるで食事の要素を何一つ逃さないとでも言うように……)

(彼は……本気だ)

(本気でこの格安どんぶりチェーンの飯をグルメしている……)

(彼は、ガチグルメだッ……!)

 全身を畏怖に震わせる飯田。金を持っていそうな青年が、優雅にどんぶりチェーン店へ踏み入り本気で味を楽しんでいる。彼の口元は嬉しそうで、無邪気な子供じみて輝いていた。

(あの青年……なぜどんぶりチェーン店をこんなに楽しめる……? こんな安い店、対して美味くも……)

 そこで飯田は、食べかけの牛丼を見下ろして思い至った。己の大きな間違いに。

(いや待て……俺にこの味を批評する権利はないんじゃないか……? 安いからといって牛丼ばかりを買い、他のメニューには目もくれなかった。これだって味わってたわけじゃない……とにかくとっとと食おうとして……)

 飯田は鼻面を殴られ、胸から心臓がポロリと落ちるような感覚に襲われる。雑に嚥下し顧みもしなかった牛丼に、無言の糾弾をされているようだった。

 青年の方はそんなことをつゆ知らず、一度割り箸を器に置いて一緒の盆に乗った小皿に指先を向けた。そこにある山椒の袋を見もせず破き、うな重に―――かけようというのか!

(馬鹿な! 何をしているんだ彼は!)

 飯田は立ち上がって叫びかけ、ギリギリで踏みとどまる。真横に座っていた老人が一瞬飯田を怪訝そうに一瞥したが、すぐに自分の味噌汁をすする作業に戻った。

(山椒をノールックでかけるだと!? そんなことをしては山椒がウナギ全体にかからない! いいのかそれで! 君はそれでいいのか!)

 両拳をきつく握りしめた飯田は内心で声を上げた。しかし青年は袋を挟んだ親指と人差し指の腹を擦るようにして山椒をウナギにかけていく。彼の手が空中に円を描き、小さな緑の粉が螺旋起動を描いて落ちた。

(万遍……ないッ……!)

 山椒はウナギの上にキレイな渦巻きを描いていた。カワバンガ―――飯田は種なしマジックを見せられた観客めいた心持ちで称賛した。青年は残り半分となったウナギを丁寧に口へ運んでいく。

 そこからの数分間、飯田は石像のようになったまま青年の食事を見守っていた。少しずつ、適度なペースで減っていくうな重は気づけばなくなっており、青年は割り箸を器に乗せて静かに合掌。祈るように頭を下げた。

 青年がアイマスクに手をかけると同時に、飯田はどんぶりをかき込むフリをして顔を隠す。だが実際には食べていない。牛丼はすっかり冷めていたが、彼は決めていたのだ。青年の声が聞こえる。

「御馳走様でした。いつもお疲れ様です」

「はーい、ありがとうございましたー」

 店員の声がして、衣擦れののちに青年が立ち去っていく。どんぶりをテーブルの盆に戻した時。飯田は敗北したボクサーめいた顔で虚脱した。

(見た目は……あんなにチャラいのに……)

(頂きますからご馳走様、さらに店員に軽く挨拶までするだと……)

(しかも、めちゃくちゃ丁寧……。見ていなかったが声でわかる……あれは本気で申し訳ないと思ってる声……そして店員の迷惑にならないよう、最低限の言葉で感謝を伝える声だ……)

 飯田は両肘を突いて手を組み、それを額に押し当てた。

(負けた……かなり年下の子に…………人間の品格で、負けた…………)

 飯田は我が身を振り返る。

 味わう気もなく、値段だけで選んだ牛丼。

 店員への雑な態度。

 そして何より、食に向き合うその姿勢。

 彼は名も知らぬ青年に、完全敗北したのだった。

 飯田は組んでいた手を解き。どんぶりの器をつかむ。その顔は既に冴えない男の表情ではない。変わると決めた者の表情である。彼は小さく手を挙げた。

「すみません、緑茶を頂けないでしょうか」

「はーい」

 店員の声を聞くと、彼は牛丼の器を持ち上げた。

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