第3話 仮の診療所
僕たちは現場に戻った。この集落は思ったよりも人が多かった。すでに亡くなっている人が数十人。荒い呼吸で起き上がれない人も多い。
「良いか。塩素系の毒ガスには、これといった特効薬はない。とにかく呼吸を落ち着つかせて、安静を保ち病院に運ぶしかない」
お爺さんはテキパキと指示を出し始めた。動ける人は塩素ガスに汚染されていない服に着替えてもらった。さらにガスがどこから噴出したのかも確認する。
「うわ・・・」
集落の中心部に黒いガスボンベが転がっていた。これが元凶に違いない。ボンベの中身は空になっているようだが、近づかないように指示する。また、このボンベの風下に当たる部分の人には風上に移動するようにお願いした。
仮の診療所を皆で使う井戸の近くに設営した頃、夜が開けた。動かなくなった子供を必死に運び込む母親。両親を探す男の子。治療を行なってもらえると聞いた住人が押し寄せてくる。
僕とお爺さんは必死になって作業したが、僕にできることは少ない。ガスに喉を焼かれたおばあさんの、気道を確保する事くらいが関の山だ。
「ありがと。ありがとうね」
それでもお礼をいうおばあさんを見て、僕は歯を喰いしばる。本当の事をいうと衛生兵なんて、一日も早く辞めたい。死ぬ人を見すぎる。
「泣いてる暇があったら、これでも喰え!」
ジャンがスープの配給を始めた。脂分の強い、牛乳入りのスープだ。脂分は焼けた気道を保護するし、牛乳も同じような作用があるらしい。温度も低めだ。
「みんなに行き渡る分は、十分あるから! 爺さんに喰ってもいいと言われた人から、どんどん並べ!」
そう言いながら、物凄い勢いで野菜を切り刻んでいく。まわりの奥さん達も、ガスに汚染されていない食材を持ち寄り、作業を始める。
「・・・ありがとう」
「俺にできることは、これ位しかない。飯の心配だけはしなくていいから。お前は、お前ができることをやれ!」
明るくなり被害の状況が、だんだん分かってきた。黒いボンベの風下に当たる地域に被害が集中していた。夜間の出来事だったので、出歩いていた大人の方が子供より患者数が多い。
「・・・あれ?」
気が付いたら道に倒れていた。まわりの人たちが、慌てて僕を引き起こす。ジャンは包丁を抱えたまま、まな板の前で爆睡していた。いつの間にか夕方になっている。お爺さんは昨日と全く変わらない表情で、診察を続けていた。
そこに北軍のトラック連隊が現れた。先頭トラックの助手席から、マックが転がり出る。
「遅くなりました! 酸素吸入器と必要機材、重傷者を搬出するトラックです!」
「おい、マックどうしたんだよ!」
騒動に飛び起きたジャンが叫ぶ。見ればマックの左頬が腫れ上がっていた。マックの後ろには苦虫を噛み潰した表情の軍人が立っている。徽章を見たら大佐だった。
「ガスボンベは何処だ?」
「集落の目抜き通り。中心部にあります」
僕は答えた。それを聞いた大佐が首を振ると、ガスマスクをつけた兵隊たちが、黒いボンベに向かい、あっと言う間に回収作業を始めた。
お爺さんは酸素吸入器の機材を調べ始めた。どうやら使い方の分かる機械だったらしい。どんどん作業を進めていく。
トラックで病院へ送る重傷者の選別が終わり、診察に一区切りがついた頃、大佐が診療所にやって来て言った。
「今日の事は忘れろ。記録は一切残すな。死者や患者の登録はこちらで行うから、軍医が到着したら、全てを引き継げ」
「おい。何、言ってんだよ!」
ジャンが喰い付く。お爺さんは彼の肩に手を置いて、ジャンを引き止めた。
「重傷者の移動と、患者の管理は全て行なって貰えるんだな?」
「・・・それは約束する。この地域は北軍管理下に当たる。軍民の保護は、こちらの仕事だ」
「このノートが診療中の記録だ。受傷度によって、ABCに分類しているから、重症であるCの患者だけでも直ちに病院へ搬送して欲しい」
「了解した」
略式敬礼をした大佐が踵を返そうとする、その時お爺さんは言った。
「あぁ、それからクーメル軍医は元気でやっているかな?」
「・・・クーメル? 医療衛生本部のクーメル中将のことか」
振り返りながら怪訝そうな表情を浮かべる大佐。
「クーメル中将を知らない北軍軍人なんていないぜ。救国の有名人じゃん。知り合いなのか?」
ジャンは、お爺さんの手を振り払った。
「儂の弟子だ」
辺りの空気がざわつく。それは凄い事だが、お爺さんは何故いま、その話をするのだろうか。
「もしもの話をしよう。もしもCの患者が乗ったトラックごと、どこかへ消えてしまう。後には何も残らない。・・・もしもそんな事があれば、クーメルが知る事になると思った方が良い」
お爺さんに睨みつけられた大佐の表情が固まる。
「・・・何の話だ」
「ガスボンベを回収して、新しい物に替えるのは構わん。これから何かしらのプロパガンダが行われるのも仕方ないだろう。だが、儂の患者に手を出すことは許さん」
「おい爺さん。何言ってんだよ?」
頭の周辺に盛大にクエスチョンマークを振りまいた、ジャンが小首を傾げる。彼と大佐の前にマックが入り込む。
「お爺さんの言う通りです。ぜひ始めのプランで作業を、お願いいたします」
大佐は舌打ちをして、忌々しそうに僕たちを睨みつけた。
「半人前の少年兵とロートルの爺さんに何が分かるか!」
大声で一喝されても、マックは動かない。こんなに強情な彼を見ることは少ない。きっと大切なことなのだろう。訳は分からないが仕方ない。僕とジャンもマックに並んで、大佐を睨みつけてやった。
しばしの沈黙。
殴られる位なら慣れているけど、いつ大佐の腰にある拳銃で撃たれるか、気が気でなかった。上官に逆らったのだから、営倉行き確定だ。しかし大佐は正式礼を行い、もう一度頭を下げて、その場を去った。
カラン
ジャンが背中に隠していた包丁を放り投げた。僕は緊張と疲労から、その場に座り込んだ。お爺さんはマックの顔の治療を始めている。
「一体全体、何だってんだよ」
ジャンが空を眺めて、ため息を付いた。僕も同じ気持ちだった。
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