第2話
僕には名前がない。まだ、というべきか、今は、というべきか。
だが、この柔らかい凪いだひだの海の中で、僕を名前で呼ぶ存在が、ひとつだけあった。ひとつ、と呼ぶのは、そいつにも名前がないからに他ならない。
「やあやあ青井くん。今日はまた一段とブルーだね」
そういって気安く僕の背後から声をかけるこいつは、ぼんやりと赤い光を発しているので、また青い光を発する僕と同じく、お互いを赤井、青井と呼んでいた。
「君といるとあれだね。雨でも降ってきそうな気がするよ」
「雨なんて見たこともないだろ」
にやりと笑いながら「今はね」と返す赤井に、僕は先ほどの捕まえらえない記憶のことを話した。
「それはさ青井君、やはり君の前世なのだと思うよ。まあ小生ほどの古老にもなるとね、そんな嫌な記憶は見ないように目をつむることも可能なんだがね」
こいつは自分のことを古めかしく小生、などと呼ぶ。もしも赤井が言う通り僕らが前世の記憶を見ているとしたら、こいつはこまっしゃくれた中学二年生だったんじゃないかと、僕は勝手に断定している。
そして古老と自身で言ってしまうほど、彼は長い事このシャボンの群れを回遊していたらしい。
「じゃあさ、赤井にはないの?そんな見たくない場面が見えることとかさ」
赤井はしばし黙り込んで、じっと考える素振りをしている。
「そうだなぁ。たまに見えるよ。場面というよりも、小生が見るのはいつも同じ女性の顔だがね」
僕は興味をそそられ、話を促すかのように赤井の顔をじっと見つめた。
「その女性が笑ってたり、泣いてたり、怒鳴っていたりするんだ。はじめは小生も彼女は母親か、はたまた連れ合いか、なんて、おめでたい想像もしていた…」
赤井は妙にゆっくりと、撚り合わせるように言葉を続けた。
「最近、彼女が絶叫しながら、小生から逃げ出すような…場面ばかり見る。青井君、小生はたぶん彼女のことを」
そこで赤井はぱたりと口をつぐんだ。
僕はなんだか背中に嫌な汗を感じ、なおもじっと赤井のそのぼやけたシルエットを見つめた。
近くでは膨れ上がった桃色の丘から、シャボンの泡がひとつ弾きだされた。
拠り所のない泡だったのか、それは瞬きの間にはじけて消えた。
いつか見た気もするあの幸せなイメージ。どうやら僕には、もうあれは必要のないものになったのかもしれない。現に思い出そうとしてみるが、ただ心の中に幸せなイメージが広がるばかりで、甘い飴玉でも口に含んだ気分になっていた。そしてふと、前方に立ち尽くしている赤井を見て、途端に甘かった飴玉が酸味を増していくのを感じる。
「青井君、考えたことはあるかい。ここにいる意味みたいなものをさ。君がちょうどその丘の前にぼんやり立っているのを見た時、小生は心が躍ったよ。なんだか許されたような気がしてね」
赤井が許されたかった過去とは、幾度となく繰り返す女性への懺悔なのだろうか。僕が固唾をのんだ言葉の先は、彼の謝罪の言葉につながっているのかもしれない。
赤井はエピローグでも語るかのように重厚に、贖罪の枕言葉を話し始めた。
「小生は毎日この桃色のシャボンを見つめて考えているよ。罪とか、罰とか、そんなことをね。なあ青井君、僕らは一体いつになったら許されるんだろう」
僕は尋ねた。
「僕たちが許されたら、君はここからいなくなるっていうのかい?」
赤井はしばらくの間、口を真一文字に結んだまま、終ぞその問いに答えることはなかった。
夢のつづきを 蓮実 @Hasu-mi
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