彼、ありきの生態系

向日葵椎

彼とその周辺の生態系について

 ぼくが彼――五十嵐いがらし晴那はるなに興味を持ったのは七月の終わり。蝉の声を熱気に溶かしたような、震える空気がじっとりと全身の肌を覆う昼のことだった。

 昼休みに一階の学食へ行くため、自分の教室から出て二階の長い廊下を階段へ向かって歩いていると、五十嵐が友人と見られる男子生徒と二人で窓際に立って話をしていた。さっぱりした黒いショートカットとすらっと背の高い五十嵐と向かい合うように、それより少し背の低い茶色味を帯びたマッシュヘアの男子生徒が身振りを添えて話題を展開しているようだ。二階の教室が並ぶこの廊下にはだいたい二年生しかいないので、ぼくや五十嵐と同じように話している相手も二年生だろう。見覚えが無いのは、この高校が一学年で二百人近いこともあり、入学してから今日まで関わったことのない生徒がほとんどであるからだ。

 ほんの些細なことでしかなかったはずだが、そのときの五十嵐のひどく落ち着いた口調や、かろうじて視線だけ相手に向けているような興味のなさそうな目、相づちを打つときに開く口が溜息でも漏らしているような形だったのが妙に気になった。

 今までこんなやつだっただろうか。


 今は別のクラスだが、小学校から現在の高校まで五十嵐とぼく――神林かんばやし幸木こうきは同じ学校だった。五十嵐とぼくは家が近所だったので、ほかの近所の友人の多くがそうしているように、家から近い学校に通っている。

 五十嵐については小学校の頃に少しだけ遊んだことがある程度の仲で、親しいと言えるほどの間柄ではなかった。

 印象は昔から〈ふわふわしている〉というか、〈人の好さそう〉な感じがあった。誰かが話しかければそれを聞くし、相手が怒っていたり話題が悲しいものでもなければ、つまらない話でもいつも微笑んでいた――笑みのバリエーションはいくつかあったのかもしれないが、ぼくはそこまで興味を持って五十嵐を観察したことがない。

 五十嵐はこの高校がある平地から程近い山のふもとに住んでいて、小学校高学年のころに一度だけ遊びに行ったことがある。

 木造の立派な二階建てで黒い瓦屋根。周辺に他の建物がないこともあり深い森の手前でひと際存在感を放っていた。

 五十嵐の部屋は二階にあって、そこで漫画を読んだりゲームをしたりした。なぜ遊ぶことになったのかは覚えていないが、そのときは二人だった。たしかあのときも季節は夏で、袋菓子と一緒に麦茶を出してもらった。

 特に記憶に残っているのは、日が暮れかけて帰るときのことだった。そのときすでに薄暗くなっていて、五十嵐に途中まで送ってもらいながらぼくは山のある方、つまり後ろを振り返るのが怖かった。そこには五十嵐の家があるので今思えば失礼な話ではあるが、そのときは玄関の灯りと道路の街灯までを実際よりも長く感じていた。

 道路を少しだけ進んで、それから五十嵐と別れた。

 薄暗かったけど、たぶんそのときも五十嵐は微笑んでいたと思う。


 昼休みに学食でチャーハン単品だけ食べたぼくは、五十嵐が今どんなことに興味があるのか、などという表面的な部分よりも、〈五十嵐はそもそもどういうやつだったのか〉ということを無性に確かめたい思いに駆られた。

 五十嵐には〈ふわふわしている〉とか〈遊んだことがある〉とかいう点のような、それでいて薄い記憶から漠然とした人物像を持っていたにすぎなかったぼくば、何か損をしているような感覚に陥っていたのだ。幼い子供が〈遠足に行って、楽しかった〉と言うときのような、彼らの中にだけある鮮明なイメージを伴ってはじめて完成する美しい想い出を、ぼくは〈これから完成させられる〉のではないか、そう予感していた。

 二階の廊下に戻ると、五十嵐はいなかった。

 こうなると、五十嵐が何組だったかはわからない現状ではまず探し出すところから始めなければいけない。

 学食にはいなかったので、ぼくは――自分の教室である三組以外を――二階にある一組から五組まで順に回ることにした。

 幸い、始めの一組を覗いたときから五十嵐の姿を見つけた。窓際の机で弁当を食べているらしい。さっき廊下で話していた生徒はこの教室におらず、話した後に別れてから弁当を食べることにしたのだろう。

 教室の入り口付近にいた生徒に声をかけ五十嵐を呼んでもらう。

 声をかけた男子生徒は大声で呼ぶことはせず、わざわざ奥の五十嵐の席まで行き、そこからこちらを指示してくれた。

 五十嵐が席を立ってこちらに向かって歩いてくる。

 その間じっとぼくを見ているが、ただ顔を確認しているような、呼ばれた心当たりがないか考えているような表情だった。

 そして教室の入り口までやってくる。

 ぼくから口を開く。

「ひさしぶり。さっき廊下で見て、昔遊んだのを思い出したんだ。覚えてる?」

 自分でもいくらか段階をすっ飛ばしていることはわかっている。しかしくどくどと話さなくて済むならそっちのほうがいい。それにぼくは昼休み明けの英語の授業の宿題をまだやっていない。

 五十嵐は「え」といささか動揺したように見えたが、すぐに表情を明るくした。

「覚えてるよ。幸木、だったよね。遊んだこともある。懐かしいな。小学生のころだった。中学校は同じだったけどほとんど話さなかったよね」

 話が早くて助かる。

「そうそう。急に懐かしくなって声をかけたんだ。ああ、そういえば食事中だったみたいで悪いね。また近いうちにその辺の話をしよう。ぼくはこれで失礼するね」

 思い立ってからすぐここまで話せれば上出来だ。

 残りは次に顔を合わせたとき――宿題を終わらせた万全の状態で――話そう。

「いいんだ。食べながらでよければこれから話そう。弁当だから学食か外のベンチにでも持っていけば話せる」

「でも悪いよ。それにぼくもこれからやることがある」

「そうか、それは残念だ。――あ、じゃあ今朝とってきた鮎の塩焼きだけでも食べていかないかい?」

「――なんだって? 今朝? 鮎?」

 ぼくは動揺した。


 食堂の長机を挟んで五十嵐と席に着く。

「いやあ、用事が宿題でよかった。なぜなら話しながらでもできる。――幸木、鮎の塩焼きはどうだい? 今が旬なんだ。しかも今朝捕れ」

 ぼくは木の棒に刺さった鮎の塩焼きを食べていた。左手に棒を握り、右手でシャーペンを握り宿題を進めつつ鮎を頬張るように食べる。

 動揺したぼくは結局食堂まで五十嵐と一緒に来てしまった。

 五十嵐はあの弁当箱の他に、どこかに鮎の塩焼きを忍ばせていたらしい。

「うん。おいしい。……五十嵐、気になったんだがこれは今朝捕ってきたのか? もしかして今朝釣りでもしてきたのか? たしか家が山の麓にあっただろう。そこを登って釣ってきたとすれば、それは大変だったはずだ」

 疑問はあるが、あまり気にならなくなるほど鮎がうまい。

 できれば鮎と宿題以外は――五十嵐の話も――後にしたい。

「よく覚えてるね。その鮎はたしかにうちの山の中腹にある川で捕れるものだ。とは言っても、自分で釣ったり捕まえたりしたものじゃないんだけどね」

「と、言うことはご家族だろうか」

「いや、もらえるんだ」

「……誰に?」

「山の生き物たちに」

 ぼくは手を止め顔を上げた。

 そして話を飲み込み前に脂ののった鮎をゆっくりと飲み込んだ。


 ぼくは鮎をおかわりし、宿題は手に着かないので残りを適当に埋めておいた。

 口が咀嚼で忙しいぼくは聞き役に徹底することにし、五十嵐の説明を聞く。

「なんていうのかな、昔からうちでは朝の決まった時間帯に山で過ごす習慣みたいのがあるんだけど、そこでは自分たちの好きなように自然と一体化するんだ。たとえばうちの祖父ちゃんは、決まって立派な松の木の近くで寝る。祖母ちゃんは背丈の二倍くらいある岩に上ってじっとする。父さんは杉の巨木に上って揺らしたり、歌を歌ったりする。母さんはどこかに行ってしまうのでよくわからないけど、土にまみれて戻ってくるからどっかで寝てるか埋まってるかしてるんだと思う」

 消化しきれない情報でお腹いっぱいになりそうなので、大事そうなことだけ訊く。

「五十嵐はどうしてる?」

「小川に入って佇む」

「……で、そこに鮎がいると」

「そこにはいないんだ。川が分かれた先の小さいやつだから」

「ああ、そういえば山の生き物だっけ? それにもらえるんだったね」

 そろそろ本当のお腹がいっぱいになってきて、一人になりたくなってきた。ゆっくり考えをまとめる時間がほしい。教室でもいいので帰りたい。

「そうさ。あれは中学校に入ってすぐのころだった。その日の朝も同じように小川に入って自然と一体化していたんだが。そのとき、なんとも心地よい風が吹いていてね、気づけば風に呼吸を合わせるように口笛を吹いていたのさ。するとどうだろう、小鳥が、猪が、野栗鼠のりすが、山の生き物たちが寄ってくるではないか――自然と一体化した結果、ただ感じるだけではなく自分からもある種の作用のようなものを発せられるようになったと考えている――それから、口笛を続けた。毎日毎日。そんなことをしているうち、山の生き物が食べ物を持ってくるようになったということなんだが、そのうちの一つがこの鮎だったってことさ」

 ぼくは最後の一口を食べようとしていた鮎をじっと見た。

 そんな様子に五十嵐が気づく。

「――ああ、それは熊が持ってきてくれた傷ついてないやつで、衛生的に問題ないやつだから。大丈夫」


 ぼくの予感は外れた。

 ぼくの中で今まであいまいな存在だった五十嵐との想い出は、五十嵐という人物をより深く知ることで完成するはずだった。

 しかし知れば知るほど完成するどころか、五十嵐がぼくと遊んでいたころから馴染みのない――ぼくは到底馴染めるとは思えない――習慣を行っていたと思うと、胸の奥がもやもやとする。食べ過ぎではないと思う。

 ふいに、五十嵐がさっきから弁当箱に手を付けていないことに気づいた。

「五十嵐、もうすぐ昼休みが終わるが、それは食べないのか?」

「ああ……これね。今日鮎のほかに何かの木の実ももらってきたんだけど、どうにも食べられる味ではなくて……食べるかい?」

「申し訳ないが、お腹がいっぱいなんだ」

 ぼくは五十嵐が弁当箱を開く前にそう言うと、残り一口の鮎を棒ごとくわえた。

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