第7章
第38話 君が望んでくれるなら
重い瞼を開くと、見たことのある天井があった。目を擦ろうとして右手を動かすと、壁にぶつかった。
「いてて……」
欠伸を噛み殺して起き上がろうとするも、うまく身体が動かない。少しだけ上体を浮かせることはできたが、すぐに力尽きて身体を投げ出した。
顔を巡らせると、窓から微かな光が差し込んでいた。その薄明かりで部屋の中を辛うじて視認することができる。
テーブルに人影があった。目を凝らしていると、向こうもこちらに気づいたようで、控えめな音量の声が聞こえた。
「ようやくお目覚めかな、シャノンちゃん」
「アリエさん……おはよう、ございます」
「うん、おはよう」
アリエはカップを口に運び、片肘を突いた。
「丸々一週間寝てたんだよ?」
「そんなに……」
「その間、ファリレちゃんがずっと看病してたんだ」
シャノンは言われて、隣に気配があることに気づいた。掛け布団を捲ると、中でファリレが猫のようにうずくまっていた。静かな寝息が聞こえ、シャノンは笑みを漏らす。
「あたしが手を出せたのは死にかけてるシャノンちゃんに応急処置をして、ここに運ぶまでだったよ。その後はファリレちゃんが付きっきりで、あたしは近づけてさえ貰えなかった。まあ、信用されてないのは仕方ないけどね」
「その割に、一週間もここにいるんですね」
「説得するのに骨が折れたよ。けど、シャノンちゃんを確実に助けるならここで安静にさせてた方がいいって言ったら、渋々了承してくれた。まったく、愛されてるねえ、シャノンちゃんは」
シャノンはゆっくりと上体を起こす。先ほどよりもうまく身体に力が入って、何とか起き上がることはできた。
「最後の方はあまり覚えてないんですけど、どうなったんですか?」
「シャノンちゃんが血まみれになって剣を砕いて、石造りの巨人は消えたよ。それで出入り口の土も崩れたから、おかげでこうして生きていられる。……ふふっ、カッコよかったよ、シャノンちゃん。このお姉さんが惚れちゃいそうなくらいにね」
手のひらに視線を落とし、シャノンは記憶を掘り起こしてみる。朧気だが、思い出してきた。だが、いまいち実感が湧かない。
それは成し遂げた証しが何もないからかも知れないと思った。血まみれになったはずのシャノンだが、身体のどこを見ても傷がない。
「治すの苦労したよ? あたしより酷かったからね。ぽっかり開いた穴がいくつもあってさ。ファリレちゃんの魔力を貰って回復魔法をかけたんだけど、それでもギリギリだったよ。もし雨じゃなかったら、助かってなかったかもね」
水属性を併せ持つ回復魔法だからこそ、雨の日には効果が向上する。それがなければ死んでいたというのは、そう大袈裟な話でもないのかも知れない。
だが、こうして完治している状態で言われても、これまた実感が湧かない。
それでも、ぐっすりと眠るファリレの目元に濃い隈ができているのを見つけて、本当に深刻な状態だったのだと想像することはできた。
「全快したらリハビリもかねて、いいことしてあげるよ?」
「無理しなくていいですよ? アリエさんはそういう経験ないんでしょう?」
アリエは苦い顔をして、肩をすくめた。
「まったく、目覚めたばかりだっていうのに、口は元気だね」
椅子を引いて立ち上がったアリエは、太腿にホルスターを巻き付け、リボルバーを収めた。白い太腿に革がわずかに食い込み、シャノンは思わず見入ってしまう。
「シャノンちゃんってこういうむちっとしたのが好きだったりするのかな? かなかな?」
「いえ、ただの男の性ってやつです」
「真顔で言うなよ……。からかい甲斐がないなあ」
げんなりした表情をしたアリエは、そのまま扉へ足を進める。
「どこへ行くんですか?」
「朝食の材料を採りに行って来る。留守番、任せたよ」
扉が閉まり、軽い足取りが遠ざかっていく。
アリエがいなくなると、途端に部屋は静まり返った。鳥の鳴き声がはっきり聞こえる。その静寂が気持ちよくもあり、ほんの少しだけ寂しくもあった。
開いた窓から流れ込む澄んだ空気を肺一杯に取り込んで、天井を仰ぎ、目を瞑る。
ようやく実感が伴ってきた。教会ではない場所。あの街ではない場所。今までの日常ではなく、非日常の世界へ足を踏み入れた。
そして、一つのことを成し遂げた。
それは自分の力ではない。自分だけの力ではない。
まだまだ弱い。一人では戦うことだって出来ない。
けれど、二人なら。
ファリレと一緒なら戦える。
傍らでうごめく音がして、むくりとファリレが起き上がった。寝ぼけ眼でシャノンに顔を向け、首を傾げている。
「おはよう、ファリレ」
「おは――っ!? お前、目が覚めっ――」
ファリレが驚愕で目を大きく開くと同時、シャノンは彼女を思いきり抱き締めた。その追撃を受けたファリレは、言葉に詰まったまま混乱を極めている。
「なっ、なっ、なに、え、なっ――」
「ありがとう、ファリレ」
才能を見つけてくれて。
必要としてくれて。
心配してくれて。
助けてくれて。
殺されかけて、たまたま尻尾を取ったことから始まった関係。
そんなものはすぐに終わると思っていた。魔王の娘の気まぐれで、あっけなく見限られる。そう思っていた。魔人が人間の奴隷になるなんて、馬鹿げた話だ。
けれど、ここまで続いた。
それを運命だと呼ぶには早計だろうか。奇跡と呼ぶには大袈裟だろうか。
何でもよかった。いずれにせよ、これは二人が望んだ関係のはずだ。
――だから。
シャノンはファリレの体温を感じながら、耳元で囁く。
――もしも彼女がこの先も望んでくれるなら。
「俺、強くなるよ。もっともっと、強くなるよ。そうしたら――」
魔王を倒しに行こう、とは言えなかった。
今でも勇者になりたいと思っている。だが、今の自分ではその未来が想像できなかった。
もう、夢見る少年ではいられない。
力を得た今だからこそ、自らが歩もうとしている途方もない道のりが、ほんの少しだけ見えた気がしていた。
だからこそ、軽々しく夢を語るようなことはしたくなかった。
「――ファリレのお母さんを助けに行こう」
それは結局、同じ事なのかも知れない。
けれど、魔王を倒すことよりも、そちらの方がまだ現実味がある。
それに、囚われの王妃を救いに行く方が、よほど勇者らしい。
ファリレはシャノンの肩に顔を押しつけ、鼻をすすった。すぐに顔を上げ、彼女はシャノンの背中に回した腕の力を強める。そして、耳元で言った。
「ええ……ありがとう。本当に、ありがとう」
肩に温もりが広がっていく。それが心地よかった。
「まあ、強くなるまでは迷惑かけるから、覚悟しといてね」
「分かっているわ。お前が駄目駄目なことくらい、嫌になるくらい目の当たりにしてきたもの」
「嫌なら無理して一緒にいなくてもいいんだよ?」
「馬鹿ね――」
ファリレが身体を引き、二人の視線が結ばれる。
試すように笑いかけるシャノンに対し、ファリレもまた挑戦的な眼差しで口元に笑みを浮かべた。
「私はお前の奴隷なのだから、嫌でも一緒にいなければならないでしょう?」
シャノンは困ったような、嬉しいような、呆れたような表情をして、ファリレの後頭部に手を添える。
「まったく、素直じゃないね」
シャノンが顔を寄せると、彼女は静かに瞼を閉じた。
おや? 魔王の娘が奴隷になりたそうにこちらを見ている ww @ww_
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