第2話

 其処は、祝福に溢れて居た。

 今上天皇陛下が明治の御代になされた婚儀に倣ふ形で黒羽清子子爵令嬢も古式服に身を包み、巷間で為されるのと折衷とし、我らが織部家・彼らが黒羽家両家一家揃ひ神前にて三三九度の義を以て婚儀とした。

 不断は洋装で、紙を結上げず、コテを当てて巻き毛にして居る清子の古式服姿には、却て新鮮味を覚へ、曰く云ひ難ひ感情を得た。


 我が織部家は、今でこそ財閥にも比するべき財界人にして資本家ではあるが、所詮は身分無き素封家であるが故に此度の婚姻を政治的視座で以て噂する者も無い訳ではなかつた。また、慥かに彼の黒羽家は戦後不況の株価暴落の煽りを受け、その財産的価値を大ひに損じたのも事実ではある。

 だが、民本主義が大ひに興り、自由主義の流れが疾風怒濤の如く前近代を流し去る浪漫主義の昨今、政略が偶々一致しただけで、私と清子との関係は双方の自由意志による全き恋愛的な物であつた。


 婚儀を終えた後は、我家の敷地にある慎ましやかな私的迎賓館と庭園にて祝賀会を兼ねた野外晩餐会を開催した。こちらは西洋風に倣ひしモノで、親類縁者、友人知人も洋装が多く、燕尾服とドレスとがランタンの光を大いに反射し、池の水がまた光を返すのと共鳴しあひ、楽隊の奏でる音楽との調和を楽しんだ。

 楽隊がジャズを流すと黒羽子爵の髭が多少引きつったが、清子や私の友人は此を合図とシャンペンを小刀で開け、更にその笑い声を広げるのであった。我が中学の級友で陸軍士官学校を出て近衛騎兵連隊に行つた前田などは、かのナポレオン帝の逸話に倣ひ、指揮刀でサーベラージュを為すものだから、栓に勢いが付き過ぎ、池の対岸に迄飛んで行き、折角の誂へし規定以上に襟の高い軍衣やロシヤ式を気取る軍帽がシャンペンで塗れて仕舞つた。清子の友人もその姿を多ひに楽しみ笑顔を漏らした。

 流石は付き人の目を盗んで女学校を抜出す陰謀を実行し銀座のカフェー等に繰出す無謀をなしたる清子とその友人達である。西洋流おてんばを心得ていると云うべきか。尤も、その陰謀術数を為す悪戯心と、しかし出た先で如何とするかの観点を欠く無策故に、俳優に会おうと帝劇に行かふにも路面電車が判らず、迷つていた所に偶々私が居合わせたのが出逢いの最初なのだから、その無謀さには感謝しかなひ。


———今後、私の前では止して欲しひモノだが。

———而して、この明るさが永久に続けば良いのだが———

 新郎新婦、両家一族郎党、友人縁者、皆に祝福を受け、曙が如き光に包まれた生活は、しかし其処に尋常ならさる影が忍び寄る。


 蜜月旅行の後、段々とその影は色を強め始めたのである。


「おい、松井、前田は如何した?」

 それは、一寸した夜会の席の事ではあつた。

 前田は中学からの旧友故、瑣末な夜会でも夜番等でなければ顔を出す、付合いの良い奴だったが、それが今夜に限り居ないのである。

「前田?おい織部、その『前田』とやらは一体全体、誰だ?」

 問われた前田と同期に士官学校に入つた松井は不可解と云わんばかりの表情を浮かべる。

「前田大尉だよ、君と同じ近衛騎兵連隊の」

「『前田大尉』?はてな、そんな士官は居たかな?どちらの連隊だ?」

 その顔は、最早疑問と云うのでは無く、唯分らない事を確認する様な表情に変わつていた。

「それも君と同じ十三連隊だよ。この前の婚儀でも伊達を気取つて派手に失敗していたではないか」

「いやいや、そんな筈は無ひ。同じ連隊の将校で名も知らぬ者など有るものか」


 これは一体何事か?

 他の者に訊ねてみても、誰一人、前田の事を憶えていない、否、「知らない」様な素振りを見せるのである。まるで最初から居なかつたかの様だ。

 しかし、ならば、私の此の「中学からの前田の記憶」は一体何だと云うのだらふか?

 某かの怪異にでも遭つて居るのだらふか?

 よくよく辺りを見てみれば、前田の為に用意させた椅子も食器や杯も、どこにも有りはしなかつた。



 こうして、私の周りで友人知人が、一人「消え」二人「消え」段々と歯抜けの櫛の様になつて行く。否、この状況を歯抜けに感じているのは唯私のみで、他の者にはこの世界にその様な者共が居ない事は、全く自明の様であるかに見える。

 次第次第に私が神経衰弱を起こし、妄想に囚われてしまつたのだらふか、と云う恐怖が私を蝕み始めた。私自身の認識作用が狂つただけならばさして問題は無い。カントの説く如く我等が世界は、各個に異なるモノを認識して居り、ただ約束事としての言葉で以て他者と関係を持つているとするのは、私には自然に感じられる程だ。寧ろ、問題は、その様な「存在しない友」を欲する私の無意識が、分裂症的妄想を齎して居ると云う「可能性」である。

 この「可能性」は唯私の精神を苦しめるのみならず、私をしてリビダフの暴走や、当家の事業の継続への障害ともなり得る社会的損失をこそ恐怖なさせしめたのである。


 かふして気も狂わんばかりの恐怖に飲込まれンとする精神を必死で抑えて居る最中、朗報が齎された。

 清子の懐妊である。

 これが男児として無事に生まれるならば、仮令我が精神が完全に狂つてしまおふとも、その以前に相続等の準備を済ませれば、残す所の形式的な仕事等は安藤が巧く取計らつてくれるだらふ、と云う楽観を得る事ができた。既に当家の事業は個人の手を離れる寸前であり、それを為せば、後は機関として粛々と冨を齎す事必定と成る。それ迄の辛抱だ、と。

 私はこの安心感を得られる希望から、指折り出産の日を待ち遠しく過ごした。


 しかし、この「朗報」は一転「悲報」となる。

 流れたのでは無い。

 出て来ないのだ。

 十月十日は過ぎ、それでも個体差は有るとの事で暫くは様子を見たが、全く出て来ない。

 母体への悪影響を不安に思い、様々検査するも全く健康との事。

 だのに、出産の気配が無い所か、十一ヶ月、丸一年と過ぎ、遂には懐妊二十ヶ月を迎えるに、未だに陣痛は疎か、悪阻さえ起きない事態である。

 全く非科学的な事態ではあるが、しかし、結核やコレラ等、現代の医学をして尚解決のできていない病は多ひ。また、十八世紀の後半にはメルスルと云う医師が「エィテル」を用いた治療を試みたが、勿論現代科学から見れば稚拙とは云え、原子や放射線等の発見が相次ぐ昨今、未発見の原理に依つてこの様な「怪異」も科学の光に照らし出されるやも知れぬ。


 そうして、帝国大学の同期を伝手に医療研究所を訪ね、或はケンブリツヂやオツクスフゥォド、ハァバァド等等のジヤァナルを漁つたりするも、一向開けぬ日々が続ひた或る日、清子の従者であるお絹が私に助けを呉れた。


 「あの、これは、当家の名誉にも関る事で御座いますれば、その、旦那様へは何卒ご内密にして頂きとう御座いますが……」

 人払いをした私の書斎であるにも拘らず、お絹はおどおどとして中々本題に入らふとしなかつた。

「なぁに、何も案ずる事は無い。これは織部家の問題であつて、御子爵家や君に塁の及ぶ事等全然無き様取計らふ事を約束するので、安心したまへ」


 その後、たどたどしく、時に敢えて遠回しな表現をするお絹の話は取留め無く、台帳に書留ながら何とか把握した内容を纏めると、次の様になつた。

 何でも清子は一時、精神性の酷いヒステリに陥り、一時期長く女学校を休んで居た時期が有るのだと云う。お絹はたった此れだけの事にも大層逡巡しながら話していた。しかし、こんな事は、自由を求める啓蒙された現代人と、嘗ての前近代的な価値観を残した女学校と云う機関とに因るヂレムマやアムビバレンツを多感な時期に受けるのだから、陥つて全く当然であり、そんな事に拘泥する奴隷的価値観の方が問題だと、私は思つて居り、多少言葉を換えてお絹にもその様に伝へた。

 この私の考へを聞き安心したのか、更にお絹が続けるには、その際、清子が療養の為に滞在した離れ小島が、何とも奇怪で、或る種猟奇的でさへあり、その事が今回の件に因して居るのではないか、との事であつた。

 最初こそ、何をそんな怪談の様な事、落語や講談でもあるまひに、とも思つたが数日を経て、他に手だても得られず、よしんば外れであらふと、此の所書物とばかり向き合ふが為に滅入つた気分の回復にもならふと、その島に行く事に決め、早速執事の安藤に手配をさせ、自身も準備を始めたのである。

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