大正永劫怪奇譚

@Pz5

第1話

 藍色と群青色の向かふを目指し、一隻の機帆船が進む。

 近海とは云へ外洋に出る直前の海域を、強い風と打続く波の中、石炭を糧に黒い息を切らし切らし、我が機帆船は進ンで居た。

 やがて蒼と碧、灘と外洋の境目に一つの黒い影が見出される。

 群青と藍の絵具を斑に垂らし、其の上から胡粉を散蒔いたが如き波間の上に、其島は現れた。


「坊ちゃま、本当に上陸なされるので?」

 濃い鼠色のフラノの背広に同生地の胴衣、コゥル天ズボンを履き、灰色になつた髭を蓄へた初老の男が訊ねて来る。

「何を云うのだ、安藤。問題を解決する為にも折角こんな辺鄙な処迄来たと云うのに、何もせずに帰れ、等と左様な事訊いて呉れるな」

 サージの茶褐色の狩猟着に編上げ半長靴、防暑帽ピスヘルメットを被り、すつかり南方仕様の格好に身を包んだ私は、昔馴染みの此の従者につい軽口を叩いて仕舞ふ。

「やや、滅相も御座いませぬ。此の安藤、坊ちゃまに口出し致す等とは、恐れ多くも……」

 安藤は山高帽を外すとハンケチで額を拭う。

「ただ、この安藤の愚案致します処、あの様な気狂いが如き噂の立ちます処に坊ちゃまがいらつしやいますのは、その……何と申しますか……」

 老婆心は有難いが、私も見縊られたモノだ。

「案ずるな、安藤。なアに、僕の此の振舞が与へる影響等微々たる物。寧ろ我が財閥の名を助くこそすれ辱める事には為りはしなひさ」


 安藤が案ずるのも無理は無ひ。今は無人島になつて居るあの島は、唯外洋と灘との境目故の潮目の荒れ具合と未だに手漕ぎの船が多い故のみならず、曰く未だに気狂いが潜み生魚を喰らひ、それで飽き足らぬときは人をも糧にする等の噂に依つても、近隣の漁民でさえ近づきはしなひ、正真正銘の「孤島」なのである。


「大体からして、お前さんも聞いたであろう噂とて、蒙昧からくる光の当たらぬ者共の前期代的妄言に尾鰭が付いたモノなのだろう。この大正の世に在つても人心の無意識的ヒステリは醒めぬモノだな」

 舳先がまた波を一つ掻き分け、白い潮溜まりが舞う。

「此処は一つ序でに、僕等の本来の目的の他に、その近代の光でその無知蒙昧さを晴らしてみせやふではないか。」

 さふ云うと私は、船頭に手で合図を出し、そのまま接岸する航路を採らせる。

「左様で御座いますか。ならばこの安藤、坊ちゃまに着いて参ります」

 言葉こそ勇ましいが、既に足元をよろけ、尻餅をつきそうである。

「宜しい。ならば進まふ!我等が未来の為に!」

 私の号令に合わせたやふに、機帆船からはエムジンが唸り、煙突から黒い息が漏れた。


 さふ、此れは我等が未来の為なのである。





 夢を——見た。


 無限に続くかに見えるロマネスクの列柱とアーチ。

 幾重もの梁が眼前を遮り、塵は延々と舞ふ。

 留度なく蠢き、形の定まらぬ混沌。

 訊ねても得られぬ応へ。

 探しても見付からぬ。

 叩いても開かぬ門。

 求めても与えられぬ。

 掴むと石になるパン。

 求めると蛇になる魚。


 狭き門から出ると広き門には守衛が溢れ、廊下は狭くなる。

 一つの扉を多くの者が’叩く。

 叩けど開かれぬ門。

 叩けど叩けど、開かれぬ。


 多くの者が息絶える。

 未だ混沌。

 否、隔絶にして拒絶。


 やがて一人、扉を開く。

 迸る雷。

 狭き門は開かれ、開いた者は息絶える。


 混沌と混沌の結合。

 言葉が迸り、光が溢れる。


 合一の前の精霊。

 光と共に現れる後光。


 眠りから醒めると、それは婚礼の日であり、光に包まれていた。

 私は、出産より先に彼女を知る事は無いであらふ。


 其等は、全て夢であつた。

 暖かい光と翼に包まれた、夢であつた。

 

 私は、仕合せ者であつた。

 ただ、仕合せであつた……


 万歳ハレルヤ

 万歳ハレルヤ

 万歳ハレルヤ

 万歳ハレルヤ

 万歳ハレルヤ

 万歳ハレルヤ

 万歳ハレルヤ


 其は、夢であつた…………

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