灰色

 学校が始まって、まだ暑さが残る教室にはやる気をどこかに置いてきたみたいな量産型の人間が集っているように思えた。”先生”に会える意外のメリットがない学校は本当に嫌いだ。「おはようー!」「おは!」「夏休みあけても元気だね!」なんて、私とは無縁の言葉が教室の前方で飛び交った。私が学校に行きたくない理由のうちの一つ。「梓ー宿題終わった?」「皐月、焼けたなー!」皐月梓。このクラスの学級委員長で、私が嫌いな人。「南さんおはよう!」私の席の横を通るとき必ず挨拶をする。そして私はそのとき教室の空気が変になっているのも知っている。男女ともに人気の彼女が、存在感の薄い私に関わること自体、空気が読めていないと思う。私は彼女のそんなところが嫌いだ。常にニコニコしていて悪口なんて言わなくて、きっと人を嫌いになるなんてことは、今までもこれからもないんだろうな。そうやって嫌みなふうに思ってしまった自分に嫌気がさした。チャイムが鳴って喧噪が教室に集約されていく。二つ斜め後ろに座った彼女の周りではまだ話し声がする。「ねえねえきいた?」「里見先生、夏休み中彼女っぽい人と歩いてたんだけど!」「あ!それ私も見た!」「めっちゃ綺麗な人だった〜」いやいや、違うんですよ。先生の彼女は私だし。心の中で反論するも、声に出せるはずもなく胃の中に溜まっていく。かくいう私も先生を疑ってメッセージをしてみたが、姉だよ。北海道から帰ってきてて久しぶりに会ったんだ。と言われた。納得しない私に先生は幼少期のお姉さんとのツーショットを送ってきた。お姉さんがいるのは事実なようで、その後に、大丈夫だよ、好きなのお前だけだし。と歯が浮くような台詞が送られてきたので信じることにした。また耳を彼女たちの会話に傾けると、先ほどとはまるで違う会話をしていた。丁度そのとき、担任の先生が入ってきた。途端、教室中が爆笑で包まれた。1学期とはまるで違うその姿に私は図らずも見惚れてしまった。真っ赤に腫れた右頬に痛々しく引っ掻かれた首筋。後方からまたひそひそ話し声が聞こえてちらっと後ろに視線を送る。「絶対彼女だよ!!」「思った!痴話げんかかな?」「別れたのかな〜」「梓はどう思う?「うーーん。分かんないや!」皐月梓と目が合った気がして慌てて前に向き直った。ああいうところが嫌いだ。先生は軽く連絡事項を伝えてすぐに教室を出て行った。始業式まではまだ時間があったので私は先生を追いかけて教室を飛び出した。社会科資料室の扉をノックして中に入ると窓側で煙草を吸っている先生がいた。「先生、敷地内は禁煙ですよ」「おー」こっちを一瞥して、「わーったよ」と灰皿にタバコを押しつけてから最後に一度白い息をふきだした。「先生顔どうしたの。彼女?」「首は猫、顔は姉貴。何、まだ疑ってんの?」ふわっとほんのりタバコのにおいに包まれた。「先生匂いうつる」「いんじゃね?マーキングってやつじゃん」「んーーそうかも?」しばらくして先生から引きはがされて、「はい、教室戻りな」「ええ」「ほら、始業式始まるぞ」渋々先生から手を離して外に出る。「あっ」扉の前には気まずそうに立っている皐月梓がいた。

 一瞬だけ視線が混じった。何事もなかったかのように横を通り過ぎようとすると「あの!私誰にも言わないから」とわざわざ声をかけてきた皐月梓を無視して教室に戻った。正直心臓がばくばくしていた。皐月梓のうちのクラスでの影響力は圧倒的である。加えて里見先生は所謂イケメンで生徒に人気がある。つまりすべての責任、というか悪い役割は私に回ってくるだろう。弁明しておきたいのが別に私が責任を負うことが嫌なわけではないし、むしろ先生のためなら私が責任を全部負うつもりでいる。覚悟はないけど。嫌なのは、その噂が広まったときに、私をかばって偽善者ぶる皐月梓だ。彼女の好感度があがっていく様子が鮮明に目に浮かんだ。「ちっ」と小さく舌打ちをして教室に戻った。その後は工場のベルトコンベアの上にいる気分だった。誰の話も私の耳には留まらずするすると抜けていった。気づいたらまた私は自分の席に座っていた。自分がこの無意識の中で体育館を往復していたと考えるとにわかに信じがたい。里見先生が入ってきてここからあのつまらない日常が始まるのだと思うと心底うんざりした。午前の授業を軽く流して昼休みが始まった瞬間、私はすぐに教室を出た。目的地は先生のところではない。中庭の外れにある大きな木に覆われた隅っこの丸テーブル。当初は白かったであろう黒ずんだそれに、私が自ら運び入れた白い木製の椅子。いわば私だけの秘密基地である。ここから二階にある社会科資料室がよく見えるのだ。お弁当を置こうと机の上を見ると明らかに不自然なトランプカードが一枚置かれていた。よくある一般的なトランプだが、妙にその周りの空気が歪んでいるような気がしてならなかった。トランプを手に取っても特に異変はなく、裏返すとハートのクイーンの絵柄が描かれていた。ここに来るのは私一人だけかと思っていたが、ほかに来客があったのだろうか。誰かの忘れ物かもしれない。そっと端に寄せてお弁当を広げて食べ始めた。いまにも雨が降り出しそうな空だ。今日は先生が見えない。家に帰って眠りにつく頃にはトランプのことなんてすっかり忘れていた。雨が降り出していた。










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