『さあ、生まれなおせ』
ここは、どこなのだろうか。
目の前には木目模様の天井が広がっている。見慣れたか見慣れていないか、で言えば見たことがあるような天井。見慣れてはいない、見たことはない、知らない天井。体にかかるのは柔らかい感触。
確か、自分は修学旅行先の京都で地面のぬかるみに足を取られて転倒して……もしかしたら気を失った自分を心配して運んでくれた人がいたのかもしれない。
ともすれば、手間を掛けさせてしまったと、少年はゆっくりとその体を起こして、唖然とした。
当然、見たことのない部屋で、当然見たことのない人がいる。それは当然だ。何ら驚くことのないことだろう。であれば、少年を唖然とさせた正体がなんであるか。
それは簡単なこと。
「あぁ、目が覚めたんだね。森の前で倒れてたから驚いたよ。大丈夫かい? どこか痛むところとか、気分が悪いとかはないかい?」
彼は、少年が寝ていたであろうベッドの横に備え付けられていただろう椅子に腰掛け、本を読んでいた顔を、少年が体を起こしたのに反応して上げていた。
それはどうでもいい。問題はそんなところにはない。そんなことより、だ。問題は彼の奥に広がる景色。窓から覗く、見える限りどこまでも広がっている草原。
京都にそのような場所はあっただろうか。いや、公園のような場所はあったはずだ。であれば、広大な草原のような場所もあったかもしれない。
だが、ここには決定的にそれとは異なる要因があった。山が見えない、ビルが見えない、建物が見えない。自分の知る世界で、人が営んできた文明の痕跡と、自分が知る世界の痕跡が一切見られない。
背筋の凍るような感覚を覚えながら、少年は男性の奥に広がる景色に釘付けになっていた。
「ん? もしかして耳が聞こえないのかな? 困ったな……何か書くものはあっただろうか……」
当然、少年のそんな態度に、そんな見当違いの印象を受けてしまっても仕方ない。そうして、男性が自分の持っていた荷物をあさり始めたところで、少年はようやく自分の状況に意識を振った。
「あ、す、すみません。聞こえています。ただ、少し驚いてしまって……ここは、どこなんですか?」
手間を掛けさせてしまったことに対する感謝より先に出てきてしまった言葉が、状況説明を要求するものであるとは、なんと失礼なことだろう。
しかし、そうしなければ心が持たなかった。自分が置かれている状況がどうなっているのか知らない限りは、感謝の言葉など出てくるとは思えなかった。
幸い、そんな言葉を掛けられた男性も不思議そうな素振りを見せながらも、少年の言葉に、何の躊躇いもなく、まるでそれが常識であるかのように、すらりと答えた。
「ここかい? ここはカルミナ公国の東の街、サイヴェルの外れの森の前だけど……もしかして、記憶が?」
カル……サイ……? 今、この人はなんと言った? 知らない単語に動揺したまま、少年は転がるようにベッドから降りて、外へ出て、言葉を失った。
窓から見た以上に見渡す限りの草原。そして場違いな小屋とその裏に広がる巨大な木から成る広大な森。
草原の奥にわずかに見える、おそらく先程の男性が言っていただろう街も、少年が知るソレとは明らかに異なるモノだった。
「おいおい、どうしたってんだい。できれば言葉を交わしてほしいんだけどな……僕としても調査対象の森の前で倒れていた怪しげな服装をした少年、なんて怪しいで済ませられるものじゃないんだ。キミの事情もある程度は答えられるかもしれない。だから、少し落ち着いて、腰を据えて話そうじゃないか」
愕然とする少年の背後から、先程の男性がドアにもたれ掛かりながら、そう提案していた。
* * * *
「つまり、キミは気を失っていた間に全く知らない場所に連れてこられた、と言いたいわけだ」
少年の主観で言えば、そうなる。何が原因かが一切不明であり、どのような原理で誰が連れてきたのかすら不明。そもそもでカルミナという国の名前もサイヴェルという街の名前すら知らない。学がないというわけではない。そんな名前の街はまだ記憶にないということはあるかもしれない。だが、国がないというのは、公国という珍しい分類の国であるにも関わらず知らないというのは、少年自身、信じられないことだった。
そんな様子の少年に男性は考え込むように口元に指を当てながら
「そもそも、ニホンのキョウト、だっけ? 生憎と僕もそんな名前の国は知らないんだ。案内できればよかったんだけど……」
そう悩んでいる男性を前に少年は、ようやく冷静さを取り戻し始めた理性で、その違和感に行き当たった。
言語が通じているのである。少年が使用していたのは紛れもない日本語。国際語ではなく、話者も日本を除けば世界的に見ても多くない。そんな言語が一切の違和感もなく通じているのは、どういうことなのだろうか。
違和感がさらなる疑問を呼び、思考が堂々巡りを繰り返す中、男性が一つ、息を吐いて、その思考を両断した。
「まあ、なにはともあれだ。キミの素性はよくわからないし、キミも、ここがどこかすらわからない。だったら仕方がない」
つまり、拘束される? そんな色を孕んだような言葉に少年は身構える。身構えて、どうなるという問題ではないかもしれないが、それでも僅かでも変わるのであれば。否、反射的なもので、少年は身構えずにはいられなかった。
しかし、それに意味があったかと言われれば、全くの杞憂だった。
結論、こういうこと。
「とりあえず、自己紹介といこうか。僕も、キミも。お互いに相手の名前すら知らないっていうのは、不便……違うな、あぁ、あれだ。歯がゆいじゃないか」
つまりは、なんだ。混乱しすぎて、そんなことにも頭が回っていなかったのだ。
「僕の名前はカザネ。カザネ・アーキバイトだ。国立研究所の調査員で――と、肩書はどうでもいいか。そんなことより、キミの名前を教えておくれ。流石に名前まで知らない、なんて言わないだろう?」
聞き逃がせない単語が聞こえた気がするが、それを今追求するのは失礼すぎるだろう。頭に過ぎった疑問を棚上げして少年は
「俺の名前は、一条隼人です」
名前を一条隼人。母親譲りの明るめの茶髪に、若干吊り目気味の日本人的な黒い瞳。同年代では平均的な身長と体重の、身の上を除けば平均的な、どこにでもいそうな、そんな少年。
付け加えるとすれば、印象に影がなければ、多少は浮ついた話はあっただろうと思われる程度には整った容姿、と言うぐらいだろうか。
探そうと思えば、どこにでもいそうな少年。それが一条隼人という人物だった。はずだった。
そして、当然ではあるが、そんな隼人の名前を聞いたカザネは考え込むように、一声、唸ったあと
「珍しい名前だね。生憎と、僕が知る限りではハヤト家という家もイチジョーという少年の捜索依頼も出てない」
「ん、んん?」
そう。当然のことなのだ。だが、隼人としても失念していたとしか言い様がない。気がつくべきだった、というのは酷だろう。そんな当然のことにも気がつけないくらいには動転するような事態であることには変わりないのだ。
つまり、どういうことか。
「あ、あー、そうじゃないです。名前が隼人で、姓が一条です」
「おや? 家の名前が頭に来るんだね。それはまた珍しいけど……うーん、確か、そんな法則の部族があったような……」
おそらく、それは隼人の知る世界の人ではないだろう。
隼人の素性を、推測を交えながら手がかりとなるものはないだろうか、と考えるカザネの呟きを意識の片隅で聞きながら、隼人はあぁ、と得心がいっていた。
あぁ、ようやく理解した。理解してしまった。どん詰まりの思考で、それしかなくなってしまった可能性で。行き詰まりの思考がはじき出した結論は極単純なソレ。
ありえないと、隼人が知る限りの常識で、そんな結果は信じられないと。
理性がソレを拒絶して、状況証拠から理性がソレ以外を認められないと喘ぐ。
詰まる所、これはそういうことだ。
――ここは、隼人が存在していた世界とは全く異なる別の世界だ。
戻る方法があるとは思えない。たとえ、あったとして、戻る判断をするかはわからない。未練があるか。憐憫を向けられ、同情を買って、気味悪がられていた身だ。どこかで肩の荷が降りたような感覚を覚えているかもしれない。ある種の救いを受けたのだろうと安心しているのかもしれない。いなくなったことで気分が晴れているのかもしれない。
ともすれば、これはいい機会なのではないだろうか。
根っこの部分が、そう簡単に変わるとは思えない。五年以上の年月を掛けて染み付いてしまった人間性だ。そう簡単に拭えるものではないだろう。
だけれども。関係性がマイナスからゼロに変わったのであれば、そういうやり直しの機会がもらえたのならば。
「カザネ、さんでしたよね。俺がいたのは日本って国です。部族が暮らしていた集落の名前じゃないんです。だから、多分、違うと思います」
「そっか……そうだよね。うーん、そうなると益々わからないんだよね。ハヤトくんには申し訳ないけど、僕にはキミを故郷に送り届けてあげられそうには――」
そうして告げようとした言葉を遮って、隼人は首を振る。
大丈夫です、と。その必要はない、と。
「そっちに関しては自分でなんとかします。ただ、言ったように俺、こっちのことなんにも知らないので、色々教えてほしいんですけど、いいですか?」
生き直そう。生まれ直そう。
今までが一条隼人の人生のプロローグだとするならば、ここからが開幕。
イチジョウ・ハヤトの物語はここから始まるのだ。
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