千年の恋と愚か者どものその後(2)

 屋敷に戻るのは気まずかった。

 リディアーヌに会えるというのに、これほど足が重いことはなかった。


 それでも、たぶんここで逃げ帰ってはいけない。いくら『朴念仁』と罵られた自分にも、それはなんとなくわかっていた。


「――――リディ」


 そう声をかけたのは、屋敷の厨房でのことだった。

 厨房には、かまどに向かうリディアーヌの背中が見える。火は止まっているようだが、湯気の立つ鍋。焼けたパンの香り。まな板の上に転がるナイフと野菜。

 まだ調理の途中だったらしい。手を止めた彼女は振り返らない。ぴくりとも動かない彼女へとかける声は、自分でも驚くほどに弱々しかった。


「話をしてもいいだろうか……?」

「…………」

「昼間の茶会でのことで……俺は、なにかリディを怒らせるようなことをしたんだな?」

「……………………」


 返事はない。

 相変わらず振り向いてもくれない。

 近づいていいのかもわからないけれど、足は無意識に彼女へと踏み出していた。


『アドラシオン』としての兄であるグランヴェリテへの相談は、最後まで実りある解答を見つけられないままだった。兄は他の誰かへの相談を勧めたけれど、思い浮かぶ顔もいない。

 せいぜい、忙しそうに駆け回るレナルドくらいだ。仕事中の彼を捕まえて話をしたところ、呆れた顔で「本人とちゃんと話をした方がいいんじゃないですかね」と言われただけだ。頼りがいがない。


 頼りがいがないと思いつつ、他に方法も見いだせず、結局はこうして屋敷に戻ってきてしまっていた。


「不快になるようなことを言ったんだな? 前世のことで、なにか余計なことを」


 これが他の人間相手であれば、怒らせた原因も怒った理由も察しが付く。

 自慢ではないが、思考を読むのは上手い方だ。相手の考えを先回りして立ち回るのは、王族にとって不可欠の能力。中でも自分が、際立って敏いことを自覚している。


 それなのに、どうしてか彼女のこととなるとわからない。

 はじめて会ったときからずっと、彼女の抱く感情には戸惑わされてばかりいる。


「謝罪をするべき……だろうか。俺がなにか、傷つけるようなことをしてしまったなら」

「………………謝罪」


 振り返らないまま、リディアーヌはそこで初めて声を上げた。

 ぽつりと小さな、震えるような声だ。


「なにについての謝罪ですか」

「それは…………」


 それは――なんだろう。なにが悪かったのだろう。


 自分としては、傷つけるつもりはなかった。どこまでいっても、人に堕ちたこの身は彼女のためだ。

 守りたい。支えたい。寄り添いたい。たとえ他の神々を敵に回したとしても。


 それでも――そう。あえて後悔を述べるとすれば。


「…………俺の運命に、お前を巻き込んだことに」


 無意識に歩み寄っていた足が止まる。視線が、知らず下を向く。

 手を伸ばせば触れられる距離。だけど今の自分には手を伸ばせない。


 愛さなければよかった。望まなければよかった。そうすれば、彼女は何度も辛い生を繰り返すことはなかった。

 自分の巻き添えで死ぬこともなかった。争いに身を投じる必要もなかった。王国の腐敗を見ることもなく、人間たちの醜さを知ることもなかった。

 死んですべてを忘れられるなら、今も傷つくことはなかったのに。


「せっかく忘れていたのに、余計なことを言った。…………すまない」


 本心だった。心よりの謝罪だった。

 言葉は厨房に響きもせず消えていく。それからは、ずっと静寂が満ちていた。


 かまどの火は止まり、水の流れる音もしない。かまどに向かうリディアーヌの手は動かず、身じろぎ一つもしない。返事もない。

 耳が痛くなるような、永遠とも思えるような静かな時間が過ぎていく。


「……………………………………………………この」


 長い、長い間のあとで、リディアーヌはようやく口を開いた。

 それはやはり先ほどと同じ、かすれて震えるような声で――。


「朴念仁! なにもわかっていなくってよ!!」


 しかし、小さくもなければ、呟くような声でもない。

 肩を怒らせて叫ぶようにそう言うと、彼女は勢いよくこちらへと振り返った。


「どうしてそうなってしまうのです!? 『せっかく忘れていた』ってなんですか!?」


 その表情に、息が止まるような気がした。

 下を向いていた視線が、まっすぐに彼女の顔を捉えて離れない。


「忘れたいわけがありまして!? あなたのことなのに!! あなたとの、過去の記憶なのに!!」


 目に映るリディアーヌの表情は、いつも取り澄ました彼女らしくもない。

 憎むような赤い瞳。きつく寄せられた眉間の皴。荒く息を吐きだす唇。


 明確な怒りの表情だった。

 だけど同時に、泣き顔でもあった。


 いつも気丈な彼女の目に、今は隠しようもない涙がにじむ。


「わたくしは忘れたくありません! かつての『神話の少女』がなにを思っていたかなんて知りませんけれど、わたくしだったら忘れたいなんて思いません!!」

「………………リディ」


 名前を呼んだものの、続く言葉は見つからなかった。

 なにを言うべきかとためらううちに、彼女は一歩、大きくこちらへと足を踏み出す。


 距離は目と鼻の先。気迫に呑まれたように、思わず足を引いてしまう。


「わたくしにはもう、彼女たちの気持ちはわかりません! どれだけ苦しい思いをしたのかも、辛いことがあったのかも! でも!!!!」


 その距離さえも詰め、リディアーヌは叫ぶ。

 肩を怒らせ、怒りを湛え、目に涙を滲ませて、絞り出すようにひときわ大きく声を上げると――。


「でも……! それだけじゃ、なかったはずですもの…………!」


 そこで、こらえきれなかったように涙があふれて落ちた。


「……大切な思い出があったはずだわ。忘れたくないことがあったはずだわ。嬉しいこと、楽しいこと、何度生まれ変わっても会いたいと思えたこと」

「………………」

「わたくしはもう、なにも思い出せないわ。ユリウス様が――アドラシオン様がずっと覚えていることを、なにも…………」


 涙が彼女の頬を伝う。拭われることもなく、伝い落ちる。

 こちらを見据える視線は強くて、同時に深い悲しみに満ちている。


 まるで、最初に出会ったときのようだ。彼女との、本当の最初。千年前によく似ている。

 だけどそのことを伝えても、今の彼女には思い出すことはできないだろう。


 それは胸を切るように痛くて――――。


 たぶん、彼女も同じなのだ。


「………………リディアーヌ」


 落ちる涙を見つめながら、ようやく口が開いていた。

 出てくるのは、謝罪の言葉ではない。それでいてたぶん、なにに向けたかもわからない謝罪より、よほど誠実な言葉だった。


「話をさせてくれないか? 長い――本当に、長い話になるが」


 夜通し語っても、きっと語り終わらない。

 三日三晩かけても終わらない。もしかしたら、生まれ変わっても終わらない。

 それでも――。


「これまでの、俺とお前のすべてのこと。お前が忘れたことを――俺のことを、知ってほしいんだ」


 語り明かそう。王国千年の歴史。千年の恋物語を。

 神話の始まりから終わりまでを。


 二人が出会い、『ユリウス』と『リディアーヌ』に至るまでを。

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