千年の恋と愚か者どものその後(1)

 忘れたくて忘れたわけではない。

 覚えていられるなら覚えていたかった。


 いや、かつての『神話の少女』の生まれ変わりたちの気持ちは、今生の彼女にはわからない。

 だけど、『リディアーヌ』は忘れたくなかった。覚えていたかった。

 何度生まれ変わっても傍にいたいと思う相手のこと。彼と積み上げてきた過去のこと。彼の歩んだ苦難の道を、歴史に残らない些細なことを、誰もが忘れていく中で、彼だけが 覚えている記憶を、自分だけは忘れたくなかった。

 孤独を運命づけられたかつての神の生まれ変わり。今はただびとに過ぎない彼を、一人きりにしたくなかった、のに。


『それは……仕方がないと思うが…………』


 エレノアが彼を朴念仁と言った気持ちがよくわかる。

 マリやソフィが非難する気持ちもよくわかる。

 ソワレの言う通り、あまりにもその発言は『サイテー』だった。


 ――朴念仁! 朴念仁!! わたくしの気持ちも知らないで!!!


 轟々の非難を浴びたユリウスが逃げるように退出し、リディアーヌへの慰め会に変わった女子会も終わり、夜になっても荒ぶる気持ちは収まらない。

 いつもの習慣で夕食の用意をしながらも、頭の中は熱を持ったまま。鍋をかき混ぜる手もおぼつかない。

 忙しいユリウスが十分な栄養を取れるようにと考えたメニュー。一人で食事を済ませないようにと、わざと作る手の込んだ料理。品数も増やして、野菜も入れて、放っておけば食事も忘れる彼を席につかせるために、手ずから用意する食事。


 仮にも公爵家の令嬢が、序列二位の神の聖女が、どうしてこんなことをしているのかを彼は知っているのだろうか。


 ――なにが『救済』よ。わたくしの気持ちを、勝手に決めて……!!


 表情が歪んでいく。目の前がぼやけていく。

 思えば、今まで彼に対してこんなに腹を立てたことはあっただろうか。

 自分が神話の少女であるとわかって嬉しいはずなのに、どうしてこうなってしまうのだろう。


 こんなとき、かつての少女たちはどうやって彼と接していたのだろう。

 どうやって怒り、どうやって許し、どうやって再び笑い合っていたのだろう。


 リディアーヌにはわからない。

 そんな記憶、今の彼女の中にはどこにもないのだから。


 ――…………朴念仁。


 目の奥が熱を持つ。鍋の中身が見えなくなる。

 あふれた感情が頬を伝い落ちそうになり、リディアーヌは慌てて自分の目元を拭った。

 そのまま火を止め、一度大きく息を吸う。こんな状態では、とても料理など続けられそうにはなかった。


 ――……駄目ね。落ち着かないと。


 不満はすでにぶつけている。

 昼間の茶会でユリウスが去ったあと、エレノアたちを相手にさんざん愚痴も言っている。


 ここらで気持ちを切り替えるべきだ。これ以上引きずるのは、誇りあるブランシェット家の一員として情けない。

 ユリウスにはみっともない姿を見せたくない。いつまでも小さなことにこだわっている、器の小さい人間だと思われたくない。

 そんなことをすれば、かつて、戦神アドラシオンとともに苦難を乗り越え、国を打ち立てた神話の少女――偉大なる初代聖女と比べられてしまう。


 彼女に見劣りしたくない。ずっとそう思ってきた。

 たとえ愛されなくても、『アドラシオン』の愛がここになくとも、永遠に自分に向かないとしても、負けたくなかった。せめて並び立ちたかった。彼女に劣らないだけの、『ユリウス』にとって価値のある自分でいたかった。


 そうやって競い続けた少女がかつての自分だったと言われても、未だに実感はない。

 ただ意地のように、リディアーヌは唇を噛んで顔を上げる。


 ――ユリウス様が戻られる前に、いつものわたくしに戻らないと。


 料理は急いで終わらせよう。それから、化粧も直しておこう。

 特に、目元の当たりは念入りに。涙の痕が見えないように。


 そう、思っていたというのに。



「――――――リディ、話をしてもいいだろうか……?」



 あの朴念仁は、こういうときに限っていつもより早く帰ってきてしまうのだ。

 厨房に立つリディアーヌの背後。らしくもなく遠慮がちにかけられた声に、リディアーヌはぎゅっと表情を強張らせた。

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