失敗も過ぎれば笑い話となる(2)

 水の中は心地よかった。

 体の横を水の抜けていく感触。川底の砂利のざらざらとした感触。水を透過する日差し。

 さやさやとした葉擦れの音に、絶え間ない水流の音。ときおり魚が近づいてきて、体を不思議そうにつついていく。


 水の中であれば、彼の光沢をもつ体表も、不定形の体も気にならない。水の流れに馴染み、水に落ちる岩陰のようにゆらゆらと揺れるだけだ。


 ――エレノアさんに連れ出されたときは、一体どうなることかと思ったが……。


 というより、どうもこうも大騒ぎになると思っていた。

 なにやら事件や騒動が起きて、それはもうどったんばったんと賑やかなことが起きるだろうと予想していた。


 だけど、たどり着いた川辺は騒ぎとは無縁の閑静な場所だった。

 風はやわらかく、空気は澄んでいて、水のにおいに満ちている。


 もちろん、これが人工の川であることはわかっている。

 まがい物、偽物、上辺を真似ただけの被造物。

 それでも、この水の流れは本物だ。


 水を飲みに木立にすむ獣がやってくる。

 水の上を、木立から落ちた葉が流れる。

 鳥が水中の魚を狙い、魚が水に近づく虫を狙う。

 無数の生命の営みが、水に乗って流れて行く。

 目には見えずとも確かに感じるその気配に、彼は無意識に川へとにじり寄っていた。


 そのまま、川の中へと体を浸し、その半ばでぼんやりと空を仰ぐ。

 空を横切る鳥の影が、水の中に頭を出す彼の上を通り過ぎていく。


 ――川へ来るなんて、どれくらいぶりだろう。


 ぼんやりと考えるのは取り留めもないことだ。

 記憶を失ってからは一度もない。それ以前の自分は、川へと足を運べるような存在だったのだろうか。


 思い返してもわからずに、彼は体を水の底へと沈めていく。

 不定形のこの体に、水はよくなじむ。とぽんと全身を沈めれば、まるで水と一体になったような心地がした。


 ――――心地よい…………。


 水の中は静かで、穏やかだ。

 喧騒は遠く、人の声は聞こえない。体を突く魚たちも、食べ物でないとわかるとするりと通り抜けていく。


 喧騒は苦手だ。騒がしいのは好きではない。大勢でいるよりも、ひとり物思いにふける時間の方が好ましい。

 なのに最近は、どうにも調子が狂う。エレノアが来てからは、彼の凪いだ日々はずいぶんと遠くなってしまった。

 彼女はまるきり、彼とは真逆の存在だ。いつも賑やかすぎるくらいに賑やかで、彼の生活を嵐のように駆け抜ける。


 ――……たぶん。


 たぶん、だけど。

 彼女はおそらく、本来ならあまり彼が好んで接する相手ではない。むしろ、苦手と言ってもいいだろう。

 善良な人物だとは思う。こんな姿の彼にも物怖じせず、あちこちに連れ出そうとしてくれる、親切で素晴らしい女性だと思っている。

 だけど本来、彼と彼女は相容れない。もしもこんな出会い方でなければ、互いに接触しようとも思わなかっただろう。

 性格も好みも異なる。やりたいことも望むことも異なる。まるで自分とは真逆の相手。


 それなのに、なぜ――――。


「――――――――か」


 などと考え始めたあたりで、彼はなんとなく察していた。


 こういう風に良くも悪くも思考の底に沈んだときは、だいたい騒動の前触れであることを。


「神様! どこですか!? まさか溺れてるんですか!? かみさ――――ギャー!!!!」


 聞こえたのは、予想を裏切らないエレノアの声。じゃぶじゃぶと荒々しく水中を歩く音。

 それから一つの悲鳴と――――大きく水飛沫の上がる音だった。

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