体調の悪い日(3)
そういうわけで、私はやらかしていた。
青ざめる私の目の前。目に入るのは、古びた暖炉と燃え盛る炎。暖炉の手前でひっくり返った鍋と、大惨事な鍋の中身と――……かつては暖炉だった、レンガの破片。
古すぎて鍋の重みに耐えきれず、崩壊したかつての暖炉からは、麦粥の優しい香りが虚しく漂っていた。
「…………面目次第もございません」
先に器に移しておいたおかげでどうにか無事だった一杯の粥を捧げ持ち、私はベッドの前でうなだれていた。
神様へ顔は向けられない。膝をついて頭を下げ、粥だけを供物のように掲げる今の私は、まるで古い絵画で見るような神聖な儀式でもしているかのようだ。
だけど残念なことに、これはそんな高尚なものではない。
単なる悲しみの謝罪である。
――ううう……せっかくリディに頼んで作ってもらったのに……!
ゆっくり休んでください――とは言われたものの、体調不良と知って神様を放っておくわけにもいかない。
神様の部屋を出たあとの私は、宿舎に戻らずアドラシオン様の屋敷へと向かっていた。
目的は、リディアーヌに食事をたかり――ではなく、わけてもらうためだ。
以前にもらったパンやチーズはまだあるけれど、体調の悪いときには少々喉を通りにくい。こういうときは、優しい味のスープや粥が一番である。
そして悲しいかな、『無能神』の聖女には、そんな手の込んだ料理を手に入れるあてはない。食堂に行ったところで麦なんてもらえないだろうし、万が一手に入ったとしても、この部屋には調理する場所もなければ、私に調理の技術もない。
そうなると、頼りになるのは料理上手の友人だけだ。
息を切らせて駆け込んだ私に、リディアーヌは二つ返事で承諾し、ミルクで煮込んだ麦の粥を作ってくれたというわけである。
ついでに『食べやすいから』と果実やらプリンやらを山のように押し付けられ、リディアーヌの下を去ったのは一時間ほど前のこと。
重い荷物を抱えながら、できる限りの急ぎ足に戻ってきたのも虚しく、鍋の中の粥はすっかり冷めていた。
まあでも、冷めたのならば温め直せば問題ない。神様の部屋にも暖炉はあるし、それくらいなら私にもできる。
そう考えたのが、すべての間違いだったとしか言いようがない。
――まさか、暖炉が壊れるとは思わないわよ。ちょっと鍋を置いただけなのに……。
こんなもの不可抗力である。悪いのは脆すぎる暖炉であって、私は悪くない。
とは、とても口にはできない。
たとえ暖炉にどれほど非があろうとも、結局とどめを刺したのは私以外のなにものでもないのである。
「起こしてしまってすみません。とりあえず、神様は食事だけして、また寝ていてください。その間に私は掃除をしますので……」
とにもかくにも、一杯の粥だけでも生き残ったのは幸運だった。
栄養を取らなければ治るものも治らない。大惨事を起こした私が言えることではないけれど、具合の悪いときは部屋の惨事など気にせずに、よく食べよく寝ているべきなのだ。
という気持ちで捧げた粥を押し付ければ、神様はおずおずと受け止める。
実際には受け止めると言うより、単に体の上に載っているだけと言った方が近い気もするけれど、投げ捨てずにいるからには受け取ってくれたと考えていいだろう。
「………………」
そのまま、神様は無言で体を波打たせ、粥をベッドの半ばまで運ぶ。
どこからともなく伸びた体の一部がスプーンを掴み、一口すくってはどこへともなく消えていくのをなんとも言えず見守っていると、不意に神様がぷるん――ではなくゆるんと震えた。
顔もなければ顔色もない神様の感情は、傍から見るとわかりにくい。そのうえすっかり溶けて伸び切っている現在、神様から読み取れるのは、体を伝う波紋くらいなものである。
だけどなんとなく――本当になんとなくだけれど、私は眉根を寄せていた。
今の『ゆるん』には、妙に元気がないように思える。
「ありがとうございます、エレノアさん。気を遣わせてしまいましたね」
眉根を寄せる私に、神様は苦笑した。
少し困ったような、おっとりとした口調はいつもと変わりない。
「こんな食事まで用意していただいて、大変でしたでしょう。おかげで少し、元気になりました」
元気、と言いながら、神様はきゅっと体を縮ませる。
溶け切った黒い体が少しだけ盛り上がり、ほんのり丸みを帯びる様子に、私の眉間の皴が深くなる。
「…………」
だけど神様は、そんな私の様子にも気づかない。
無言の私をよそに、さらに明るい声を出す。
「私はもう大丈夫ですから、気にしないでください。エレノアさんは聖女として十分やることをやってくださいました」
「………………」
「なので、これ以上ご迷惑は――――あうっ」
と神様が悲鳴を上げたのは、私が彼の体に触れたからだ。
いや、『触れた』だけだと語弊がある。
今の私は、完全に神様の体の端を掴んで、握りしめている。
「え、エレノアさん……?」
「気を遣わせなくてどうするんですか、こんなときに」
両手で神様の手を握りながら、私は戸惑う神様をねめつける。
手の中の神様の体は、弾力もハリもあったものではない。いつものもちもちな滑らかさは影もなく、水気を失った肌触りは悲しいくらいにしおしおだ。
これでは乙女の柔肌ではなく、老人の肌。たるたるとした体は、揉みしだくことすらためらうほどに力ない。
「こんな状態の神様を見て、気にするなっていう方が無理がありますよ。……そりゃあ、出て行った方が落ち着くってことなら出て行きますけど」
もちろん、一人で寝たいというのであれば邪魔をするつもりはない。
私がいたらうるさくて邪魔だ言われてしまえばごもっともであり、迷惑だから帰ってくれと言われても、私は反論の余地もなくとぼとぼ宿舎に戻るだろう。
でも、神様の『大丈夫』はそうじゃない。
いつもより力ない体。いつもよりも弱気な態度。いつもよりも元気のない震え方。私が部屋にいることに気付いたときの、どこかほっとしたような反応。
――なにが『大丈夫』よ。
具合が悪いのだろう。きっと心細さもあるだろう。一人きりで不安になって、夢見も悪くなるだろう。
私は神様と過ごすようになってまだ一か月。神様にも食あたりがあるということも、具合が悪いと溶けることも、こんなしおしおになることも知らなかった。
それでも、私だってわかっているつもりだ。
神様は、人の心配はするくせに自分の心配はさせたがらない。
こんなときでさえ、気を遣っているのは私ではなく神様の方なのだということくらいは。
「私だって、心配なんです。聖女だからとか、役目だからとかでもなくて――ずっと一緒にいる相手なんだから、当たり前じゃないですか」
言いながら、私は神様を掴む手に力を込める。
いつもの神様だったら、きっともちもち困ったように逃げているところ。
今のたるたるの神様は逃げない。逃げる気力がないだけ――なのかもしれないけれど。
「神様は、もう少し甘えてくださってもいいんですよ」
握りしめた手は、自分からは離さない。
だって、私が風邪をひいたとき。具合が悪くて寝込んでいるとき。私の傍には姉がいて、眠れない私の手を握っていてくれた。
あのときの手の感触も、ほっとするような安心感も、私は覚えているのだから。
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