体調の悪い日(2)

 たたた、ぱたん――と音がする。

 部屋を早足に横切る音と、そっと扉を閉める音だ。


 ――出て行ったのか……。


 彼女らしからぬ遠慮がちな物音に、彼はベッドの上で嘆息する。

 どうやら気を使わせてしまったらしい。


 ――……せっかく来てもらったのに、申し訳ないことをした。


 この小屋が神殿の端にあることは知っている。宿舎や食堂から遠すぎると、エレノアも常々文句を言っていた。きっと、ずいぶんな無駄足だと思ったことだろう。


 だけど自分がこんな調子では、部屋に残ってもらってもエレノアが困るだろう。

 することもないのに彼女を拘束するのは、それこそ申し訳がなかった。


 彼の『これ』は、感染するような病気ではない。

 せめてエレノアがゆっくり休めるようにと願いながら、彼は力の入らない体を横たえ、重たい泥のような眠りへと落ちていった。






 ――――――――――死ね。


 暗闇の中で声がする。

 体は重く、身動きが取れない。まるで泥の中に沈んでいるように、冷たく苦しかった。


 きっとこれは夢なのだろう、と動けない闇の中でぼんやりと考える。

 普段は夢など見もしないが、体の不調が彼に悪夢を見せているのだ。


 ――――――――――死ね。


 不調の原因は、彼自身にもわかっていた。

 ここ最近受け止めた、どこかの誰かの穢れのためだ。


 エレノアに浄化をしてもらう一方で、彼はまだ己の役割も投げ出してはいない。

 穢れがあれば受け止める。それはもはや、ほとんど感情の伴わない習慣めいた行動だ。

 人間で言えば、食事を摂るようなもの。食卓に載ったいつものパンを食べるかのように、彼もまた好悪なく穢れを呑む。


 ――――――――――しね。


 神は穢れに感情を揺らされない。

 穢れは人の心であり、神には卑小すぎるものだ。

 嘆きの声は耳にする。恨みの深さは理解する。悲しみも、苦しみも、すべて聞こえている。

 そのうえで、彼の心は凪いだまま。

 穢れを受け入れ、哀れみながら、決して囚われることはない。


 ただ――――。


 ――――――――――しねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね。


 最近は、少しだけ調子が悪かった。

 揺れない心が波打ち、聞き流していた言葉に意識が寄せられる。

 穢れの声がいつもよりも近く、大きく響き、頭から離れない。


 ――……食当たりのようなもの、か。


 呑んだ穢れに当てられたのだから、そう間違った説明ではないはずだ。

 今は重たい穢れの声も、半日ほどすれば慣れてくる。

 そうすれば、夢の中まで追いかけてくることもなくなるだろう。


 ――――――――――しねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね。


 一人でいるのは慣れている。

 穢れの悪意にも慣れている。

 彼がいたのは、もとより一人きりの暗い小屋。彼の体は泥のように重く、彼を取り巻く感情は蔑みに満ちている。

 闇の中で見る悪夢は、目を覚ましているときともそう変わりない。

 泥の底へと引きずり込むような声に、彼は諦念とともに身を浸し――――。


 かけたとき。

 ぱたん、たたた、と妙な音を聞いた。


 ――――うん?


 夢うつつの耳――は彼には存在しないが、体が音をとらえる。

 部屋の扉をそっと閉める音に、小走りの足音。


 ――――――――――しね。


 変わらず響く穢れの声に紛れ込んだ、遠慮がちで、だけど確実に場違いな物音。

 いったい、この音は――――。


 ――――――――――しねしねしねしねしねしねしねカチャンしねしねしねしねしねガサガサしねしねしねドスンしねしねしねパタパタしねしねカチンしねしねガコガコしねしねガチャンしねドンガラガラガラ!! ガッシャン!!!!!!!!!!!


「エレノアさん!!!!!???」


 なんだろう、などと悠長なことは言っていられない。

 どう考えてもやらかしたとしか思えない騒音に、夢うつつだった彼は跳ね起きた。






 目を覚ませば、いつもの小屋のベッドの上。

 日当たりの悪い窓から、それでも春らしい明るい光が差している。


 一人だったはずの小屋の中に感じるのは、火の入った暖炉と青ざめたエレノアと、どこからかただよう――粥の香り?


 いったいどういうことかと溶けた体をひねったときには、彼を苛めていた泥のような悪夢はもう、それこそ夢のように霧散していた。

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