体調の悪い日(1)

3章直後あたり(まだ神様が人型になる前)の日常小話

―――――――――――――――――――――――――――


 アマルダによって、『無能神』の聖女を押し付けられてから、おおよそ一か月。

 不本意ながらはじまった聖女の役目も、一か月も経てばすっかり慣れたものだ。

 どう考えても人ならざる神様の姿にも慣れたし、その蠢く姿にも慣れた。半分溶けたようにどろどろだった姿がいつのまにやら弾力のあるぷるぷるになっていたことも慣れ、その姿で伸びたり縮んだりするのも見慣れた今、もはや生半可なことでは驚かなくなった自信があった。


 自信があった、のである。


「…………」


 今日も今日とてお世話のためにやってきた、いつもの神様の部屋。

 いつものように朝食片手に軽くノックをし、いつものように返事を待たずに扉を開け、いつものように部屋へと足を踏み入れた私が見たのは、いつもならざる部屋の光景だった。


 本日は晴天。春らしい暖かな陽気の日。

 窓から差し込む朝の光が、いつもは薄暗い神様の部屋を明るく照らしている。


 古びた暖炉。ひび割れた窓。古びた部屋には不釣り合いなほど豪華な家具。

 いつも一緒に食事をとる丸テーブル。テーブルを囲う二脚の椅子。壁際の大きな棚に、その反対側にある寝心地の良さそうな立派なベッド。


 そのベッドの上で、神様が溶けている。


「……………………」


 神様が溶けている。


 いつもは丸くぷるんとした神様が、穏やかな陽気の下で、若干の光沢だけを名残に液状化している。


 ベッドの上に広がるのは、神様と思しき液体だ。

 幸いにも――幸いにも? シーツに染み込んでいる様子はないけれど、そのぶんベッドの端から神様がしたたり落ち、床に黒い水たまりを作っていた。


 本日は晴天。薄暗くて見間違えたと自分に言い訳もできないほど、明るい朝。

 何度見ても神様は溶けている。鮮やかな陽光に、黒い体が艶めいている。


「…………………………………………」


 あ、ちょうちょ。

 春だなあ…………。


 ―――――――――ではなく。


「神様が溶けてる――――!? ど、どういうことですか!!」


 思わず現実逃避をしている場合ではない。

 ちょうちょはいったん横に置き、ついでに持っていた朝食のトレーもテーブルに置くと、私は大慌てで神様のベッドへと駆け寄った。


 そのままベッドの前で膝をつき、改めて見てもやっぱり神様は溶けている。

 実は目の錯覚だったとかなんとか淡い期待も虚しく、もうどうしようもないほどに溶けているとしか言いようがない。


「しかも、なんかちょっと萎れてます!? ご、ご無事――じゃないですよねこれ、どう考えても!」


 いつものハリのある艶もなく、黒い体もどこかくすんだ神様に、私は困惑しながら呼びかける。

 だけど神様の返事はない。ピクリとも動かない。薄く伸び切って横たわる神様は、まるで水分が抜けたしおしおの茄子といった風情である。


「か、神様……生きてますか……!?」


 神様は死なない、という大前提も、こうなっては頭に浮かばない。

 昨日まではちゃんともちもちのぷにぷにだったのに、いったいどうしてこんなことになってしまったのだろう。

 思い返しても心当たりはなく、困惑しながら薄い神様に手を伸ばした――そのときだ。


「――――エレノアさん」


 透けるほど薄い神様に触れた瞬間、か細い声が響く。

 同時に、手の中の神様が身じろぎするように小さく揺れた。


「おはようございます……エレノアさん……。すみません、こんな格好で……」


 良かった生きていた――などと思う私とは裏腹に、神様は弱々しくも恥じらうように挨拶をする。

 どうやら、今の姿を見せるのに抵抗があるらしい。私に掴まれていた薄い体も、逃げるようにそそくさと引っ込める。


「だらしない姿を見せてしまいました。恥ずかしながら、体調を崩してしまったようで……」

「い、いえ、だらしない姿とかそういう問題では――――体調を崩した!?」


 そんな、部屋着でダラダラしていたところを見られたかのような――と言いかけて、私は続く神様の言葉にぎょっとする。

 神様は、これでも立派な神の一柱である。たとえ序列最下位でも、『無能神』と言われていても神は神。さっきはすっかり忘れていたけれど、これでも不老不死なのである。

 なのに体調を崩した。萎れた茄子もかくやというほどに、弱っている。


 ――そんなことってある……!?


「そんなたいしたことはなく……軽い食あたりのようなものでして、寝ていれば治るんですけれど……」

「食あたり!?」


 ――そんなことってある!!!?


 神らしからぬ衝撃の体調不良に、私の理解が追い付かない。

 神も食にあたるものなのだろうか? 神さえも苦しめるなんて、いったいどんなものを食べたのか? いや待て、そもそも私と神様は同じものを食べているはずで、どうして私はピンピンしているのだろう――。


「…………エレノアさん」


 と愕然とする私を見上げる――ように薄い体を持ち上げて、神様は重たい息を吐いた。


「せっかく来てくださったのに申し訳ありません……こんな状態なので、私の世話はけっこうです。エレノアさんも、今日はゆっくりお休みください」


 どうやら、会話をしたせいで疲れてしまったらしい。

 神様は先ほどよりもさらにか細い声でそう言うと、そのまま力尽きたようにへちょんと潰れる。


 それきり、神様はまたピクリとも動かない。

 透けるほどに薄く広がった神様を私はしばし、呆然と瞬くほかになかった。


 神殿生活一か月。

 神様のお世話に慣れる日は、まだまだ遠いようだ。

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