25話 エレノア

 唇に触れる感触はやわらかかった。

 今までで一番近い距離。吐息も、鼓動さえも聞こえそうな距離で、彼は重ねた唇をそっと放す。

 目を開ければ、真っ赤に染まったエレノアの顔がある。驚いたように目を見開き、瞬きさえも忘れたエレノアを見つめて、彼は照れくささにはにかんだ。


「すみません、エレノアさん。急にこんなことをして」


 真っ赤に染まったエレノアに、つい許可も待たずに口付けてしまった。軽く触れただけとは言え、褒められた行為ではないことは自覚している。

 だけど同時に、拒まれなかったこともわかっている。嬉しさと気恥ずかしさが入り混じり、落ち着かない感情を抱えながら、彼はそわそわとエレノアの反応を窺い――。


「…………エレノアさん?」


 きゅっと眉根を寄せた。

 エレノアの反応がない。体は凍り付いたように強張ったまま動かず、見開かれた目は未だ瞬きをしない。互いの鼻先が触れ合う、吐息さえも聞こえそうな距離、だというのに。


 ――…………聞こえない。


 息が止まりそう、などとエレノアが考えたことを彼は知る由もないが、現在のエレノアは実際に息が止まっていた。さらに言うなら、息以外もだいたい止まっていた。


「…………あの」


 眉根を寄せたまま、彼はエレノアの頬に添えていた手で感触をたしかめる。

 指の先に感じるのは、熱を持った彼よりもさらに熱い彼女の体温。と、わかりやすいくらいにわかりやすい鼓動。

 よかった生きている――と場違いな安堵をしたのは束の間だ。

 あまりにも束の間だった。


「―――――か、かかかっ」


 彼女の口から、声とも鳴き声ともつかない音が漏れる。

 触れられたことで我に返ったのだろう。エレノアは忘れていた瞬きを繰り返しながら、今さら距離感に驚いたように身じろぎをする。

 どうやら、距離を取ろうとしたらしい。真っ赤な顔をさらに赤く染め、わずかに腰を浮かしたのは――だけど失敗だったとしか言いようがない。


「神さ――――あっ」

「あっ」


 と思ったときにはもう遅い。

 動揺したエレノアは足を滑らし、噴水に向かって大きく傾き――そのまま。


「え――――」


 あまりのことに呆気にとられる彼の目の前。

 彼女はそのまま、いっそ冗談かと思うほど見事に、背中から水の中へと落ちていった。


「エレノアさん――――――!!?」


 これもまた冗談みたいに大きな水飛沫に、彼は思わず悲鳴を上げた。

 上げてしまった。


 明かりもろくにない暗い水辺。祝勝会のほど近く。

 噴水を挟んだすぐ向こうでは大勢の人々が集まっている。周囲は厳重に警戒され、それでもなおどこに『彼女たち』が潜んでいるかわからない、危険な場所で。

 思いきり大きな声で、叫んでしまった。



 男性にしては少し高めのよく通る声が、あたり一帯に響き渡る。

 その結果が現われたのは、エレノアを助けようと噴水に踏み込み、濡れた彼女の腕を掴んだときだった。


「だ、大丈夫ですか! エレノアさ――――」


 水から半身を起こした彼女への、気遣いの言葉は最後まで口にできない。

 それよりも先に、背後にぞくりと寒気を感じてしまったからだ。


 人の気配がする。しかも、一人二人ではない。

 そしておそらく、この寒気は――――。



「やっぱり! 騒がしいから怪しいと思ったら、こんなところにいらっしゃったのね!」

「グランヴェリテ様! ほんの少しでいいのでお時間をください! 決して悪い話ではありませんので!」

「わたし、下心なんてなにもなくて、ただグランヴェリテ様にお祈りを捧げさせていただきたいだけなんです! 本当です!!」


「――――す、すみません、グランヴェリテ様! 聖女たちに突破されてしまいました!!」


 最後に叫んだのは、見張りを頼んでいた神殿兵の一人だ。

 こちらへ駆けてくる無数の足音を追ってきたのだろう。兵の足音は少し遠い。


 さらに遠くから聞こえた悲鳴は、他の神殿兵のもののように思われた。

 いったいどんな恐ろしいものに襲われたのか、断末魔めいた悲鳴ののち、やはり女性の軽い足音が複数、こちらへ向かって駆けてきている。


「なんだ! 今の悲鳴は何事だ!?」


 そのうえ、その悲鳴を聞きつけて、今度は祝勝会の見回りをしていた王家の兵たちが集まる気配もする。

 あまりのざわめきに、先ほどまで噴水の向こうで騒いでいた祝勝会の酔客たちまでもが、なんだなんだと明かりを掲げてこちらを覗き込んでいた。



 周囲を取り巻く人の群れに、今度は彼が停止する番だ。

 エレノアを助け起こした態勢のまま、いったいどうすればいいのかと凍り付く。

 浮かれた気持ちも、この状況では続かない。冷や汗を流しつつエレノアを窺い見れば、彼女もまた唖然としたように目を見開いていて――――。


「神様!!」


 だけど、すぐにその表情は切り替わる。

 こういうときは、エレノアの方がずっと強い。彼女は迷わず彼の手を握りしめると、おもむろに立ち上がった。


「こういうときは――――」


 エレノアに引っ張られるようにして、彼もまた水の中から立ち上がる。

 助け起こしに来たはずなのに、どちらが助けに来たのかわからない。握りしめられた手は強く、先ほどまで真っ赤だったのも嘘のようだ。


 つないだ手を熱く感じるのは、きっと今は彼だけなのだろう。

 彼の視線を受けながら、彼女はどこまでもどこまでも前を向き――――。


「――――逃げるしかないわ!!!!」


 そう言って、彼の手を掴んだまま一目散に駆けだした。



 エレノアに引きずられるように、彼は星空の下を走り出す。

 思い切りのいいエレノアの行動に呆気にとられたのか、一拍遅れて背後の人々も追いかけてくる。

 聞こえるのは無数の足音。野次馬の歓声。闇夜を満たす無数のざわめき。うるさいくらいの、賑やかさ。


 エレノアといると、いつもこうだ。

 誰にも顧みられない、泥のように冷たい静謐な日々はもう遠い。

 静寂も、孤独も、諦念も、彼女はすべて引っ掻き回してしまった。

 静けさを好む彼にとっては、少しばかり騒がしすぎるくらいに。


 冷たい夜の静けさなんて、今は欠片も残ってはいない。

 呆れるほどの騒々しさが馬鹿馬鹿しくて、あまりにもくだらなくて――だけど。


 それも彼女らしい気がして。彼女と一緒なら、この馬鹿馬鹿しさも楽しくて。

 エレノアの手を握りしめたまま、彼はたまらず、吹き出すように笑ってしまった。






(終わり)


――――――――――――――

このあとミニもちもちを忘れたことに気付いて、またみんなで大騒ぎしてる……。



これにて完結です。

最後までお付き合いありがとうございました!

読んでくださったみなさまにとって、『楽しかった!』と思っていただける話であったことを祈ります。


そして、本作は角川ビーンズ文庫様より書籍1~3巻が発売中です。

もしもWEB版を楽しんでいただけましたなら、書籍版も応援していただけますと幸いです!

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