24話 神様⑦

 神様は瞬いた。

 暗く冷たい空の下。しばし言葉を失ったように私を見つめ、瞬きだけを繰り返す。


 この暗闇の中では、さすがに顔色までは読み取れない。

 だけど血の気が引いているのだろうことは、表情を見ただけでもよくわかった。


「………………私」


 少しの間のあとで、神様はかすれた小さな声を漏らした。

 視線は私に向いたまま。瞳が怯えたように、私を映して揺れている。


「エレノアさんを怒らせてしまったんですね」

「当たり前です!」


 そんな神様の怯えをよそに、私は食い気味に肯定する。

 神様こそ傷ついた顔をしているけれど、気の毒に思ってはいられない。私は怒っているのである。


「あのですね、私、神様のことを『優しくない』と思ったこと、ないですから!」


 私はぐっと神様に身を乗り出すと、語気を強めてそう言った。

 神様は驚いたように目を見開き、それからすぐに眉根を寄せる。


「…………はい?」

「それに、神様は敗北もしていません! そもそも、勝った負けたの話じゃないでしょう!」

「あの、エレノアさん……?」


 神様が困惑気味に口を挟むけれど、私はもちろん止まらない。

 神様の言葉を否定しながら指を折り、一本、二本、三本目の中指を曲げる。


「イケメンとか、そういうのもいいですから! 序列とか、力があるとかないとかも! だいたい――――」


「エレノアさん、待ってくだ」


「だいたい、私は『無能神』の聖女で迷惑をかけられたなんて、思っていませんから!」


 四本目。薬指を曲げて、私は荒く息を吐く。

 怒りはまるで収まらない。自分で言っていて、またちょっと腹が立ってきさえする。


「そりゃあ、苦労はしましたよ! 部屋は狭いし汚いし、食事もろくにもらえないし、みんなに馬鹿にされるし、落ち着いたと思ったら問題ばっかり起きるし!」


 辛くなかった、とは言わない。

 最初のころは早くアマルダに押し付け返して、聖女を辞めてやるとも思っていた。

 嫌になったこともあるし、神様に八つ当たりをしたことさえある。


 でも、と私はきつく奥歯を噛む。

 でも、だけど、そんなことは――――。


 ――当たり前じゃない! 神様と聖女なんだから!!


「いいんですよ、苦労をかけて! 頼ってくれて! 神様と一緒に苦労することを、迷惑なんて思わないわ!!」


「――――」


 私の目の前で、神様がはっとしたように息を呑む。

 なにか言いたげに口を開き、だけど迷うように閉ざす神様の言葉を、私は待たない。

 頭の熱の赴くまま、折った指を睨みつけながら、怒りに震える心を吐き続ける。


「神様が、最高神でなくてもいいんです。苦労したっていいんです。イケメンでも、そうじゃなくても、私の答えは変わりません。序列が高くても低くても、私には」


 神様が『無能神』だから嫌になったりはしない。

 最高神だから聖女になりたがるわけじゃない。

 この先、神様がまた『無能神』に戻っても、神様よりさらに上の身分の神様が現れたとしても、なにかが変わることはない。

 容姿や序列では代わりにならない。


 ――だって。


 私と一緒に苦労したのも、穢れから助けてくれたのも、私の夢を笑わないでいてくれたのも、泣いている私を慰めてくれたのも。

 神殿の片隅のほとんど人の来ない小さな部屋。汚れた部屋を掃除して、少しずつ明るくして、何度も言葉を交わして、笑って泣いて怒って、ずっと傍にいて。

 私の騒がしさを受け止めて、微笑みを返してくれたのは、ぜんぶ。


「ぜんぶ、同じ神様なんですから」


 他の誰でもない。他のなににも代えられない。

 たとえ最初は、押し付けられた聖女だったとしても。


「私にとっての『神様』は、『あなた』の他にいないんです」


 私の言葉が途切れれば、一瞬、周囲はしんと静かになる。

 水の音は耳に遠く、騒ぎ声も頭が熱を持った今は聞こえない。


 怒りすぎたせいか熱のせいか、視界はじわりとにじんでいた。

 真正面の神様の表情さえも、今の私にはよく見えない。

 どんな顔をして、どんな気持ちで私の言葉を聞いているのかもわからないまま、私は最後の指を折る。


「結婚式のことだって……!」


 五本すべての指を折り切り、丸くなった手が力んでいる。

 言葉を吐いても吐いても、熱が冷めていく気配はない。握り込んだ手は震えていて、私の言葉も震えている。


「『ご一緒できます』じゃないわ、そんな他人事みたいに! 私の望む理想の結婚式なんてしてどうするのよ!」


 神様はいつもそう。

 いつも自分のことは一歩引いて、他の誰かのことばかり。

 迷惑なんて思わないのに。そんなに気を使わないでほしいのに。もっともっと、わがままを言ってほしいのに。

 神様が私を受け止めてくれるように、私だって受け止めたいのに。


「私『だけ』の理想の結婚式なんてしたって、意味がないじゃない! 結婚式なんだから、二人の大切な日なんだから、花嫁と、花婿のための日なんだから!」


 震える手を膝の上に落とし、私は頭上の神様を睨みつける。

 ぎくりとしたように身を引く神様を逃がしはしない。

 私は神様が引いた分だけ前のめりに、熱でくしゃくしゃの顔を向け、怒りに任せた――だけど本心からの言葉を突き付ける。


「神様にとっても、理想の結婚式にしないとダメなんです! 神様のやりたいこと、嬉しいこと、望むこと! 私だって――」


 私が憧れたのは、望み望まれた結婚式。

 幸せそうな新郎新婦。新婦だけが幸せでも、新郎が我慢していても意味がない。


 勝ち負けじゃない。守られるだけじゃない。与えられるだけじゃない。

 苦労があるなら分かち合いたい。重荷があるなら一緒に背負って、楽しいことは分け合って、それで。


「――――私だって、神様を幸せにしたいんです!!」


 言いたいことを言いきって、私はようやく息を吐く。

 汗やらなにやらのにじんだ目元を拭えば、視界も少しだけ戻ってきた。

 星明かりの空に、手燭のおぼろな光。闇に慣れた目は、わずかな明かりでも周囲の光景を映し出す。

 あたりを取り巻く花壇に、流れ続ける噴水の水。水面の際に腰を掛ける神様が、私をどこかぽかんと見つめている。

 暗闇には似合わない、鮮やかな金の髪が垂れている。私を映す金の目は、見開かれたまま動かない。表情は強張り、わずかに開いた口さえも、時が止まったように凍り付いている。


 だけど、時が止まっていないことはよくわかる。

 私の視線の先、睨みつけられた神様の顔が――この暗闇でも見て取れるほどに、みるみる赤く染まっていったからだ。


「………………はい」


 今まで見たことがないほど赤くなった神様が、こくりと私の言葉にうなずく。

 声はか細く、消え入るようにささやかで、同時にひどく嬉しそうでもある。


「ありがとうございます、エレノアさん」


「…………」


 ――『ありがとう』…………?


 とは。

 どういうことだろう――と思いかけたところで、はたと止まる。

 怒りを吐き切り、そろそろ落ち着きも戻ってきた頭の中。

 先ほどまで自分が告げた言葉が、頭の中に戻ってくる。


「…………………」


 聖女になってほしい、の返事の答えはまだ言っていない――と思う。

 しかし私はなんと言っただろう。

 勢いのままに、私は神様に向かって――――。


『私だって、神様を幸せにしたいんです』とか、なんとか。



「…………………………………」


 ぼふん、と頭で音がした気がした。

 頭の奥で、なにかが間違いなく爆ぜた。


 自分の言葉を自覚した途端、顔が一気に熱くなる。顔以外もなにもかも熱くなる。

 茹で上がった、という言葉がぴったりの今の状況。私はおそらく、神様に負けず劣らず赤くなっているのだろう。

 いや、もしかしたら神様よりもずっと、真っ赤に染まっているのかもしれない。

 なにせ神様は私を見て、いかにもおかしそうにくすりと笑ったくらいだ。


「すみません、エレノアさん」


 笑いながら、神様は私に謝罪する。

 そんな謝罪までされるほど、私はおかしい顔をしているのだろうか。しているかもしれない。今の私の状態では、まったく否定できないのが厄介だ。


 ――こ、こんな顔見せられないわ!


 羞恥にさらに羞恥を重ね、もう熱を持ちすぎてわけがわからない。

 とにかく、まずは笑われるほどおかしな顔を隠さなければと、神様から顔を背けようとしたとき――。


「私はやっぱり、優しくはないみたいです」


 続く神様の声が落ちてきた。

 え、と口に出せたかどうかは、よくわからない。

 顔は背けられなかった。背けるよりも先に、神様の手が伸びてくる。


 驚くよりも、戸惑うよりも、神様の指が頬に触れるほうが早い。

 茹で上がった頬に、神様の手はひやりと冷たかった。


「か、神さ…………」


 ま、の言葉までは告げられない。

 制止の言葉は、至近距離でぶつかる神様の目に呑み込まれる。


 金色の瞳が、私の姿を映し込んでいる。

 同じ色の柔らかな髪が、私の頬に触れる。

 鼻先がかすめる瞬間、私はどんな顔をしていただろう。


 たぶん。

 たぶんだけど――――きっと、ものすごい顔をしていた。

 驚きと、戸惑いと、恥ずかしさと驚きと驚きと驚きと――それでいて、嫌じゃない。ほんの少しの嬉しさの混じった、神様にしか見せられないような顔をしていたはずだ。



 優しくない、と神様は言ったけれど。

 唇に触れる感触は柔らかくて、あたたかくて――――息が止まりそうなほど、優しかった。





――――――――――――――

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