22話 神様⑤

 あなたがいるからですよ。

 あなたがいるからですよ。


 あなたがいるからですよ………………?


 ――ええと…………。


 神様の言葉を頭の中で繰り返し、停止したまましばらく。

 長い長い沈黙のあとで、私はおそるおそる自分の顔を指さした。


「………………………………私?」

「はい」


 実に間の抜けた私の言葉に、神様は迷いもなくうなずいた。

 たぶん私の顔も相当に間が抜けているだろうに、吹き出しもしないし呆れもしない。

 いっそ、笑い飛ばしてくれたほうが気が楽だと思うくらいに表情を変えず、彼は私の顔をのぞき込む。


「私は、あなたに敗北したのですよ。エレノアさん」

「は、敗北……」


 とは。

 いったいなんのことかと、私はさっぱり理解が追い付かないままに聞いた言葉を繰り返す。

 いや、理解どころではない。感情がまったく、なんにも、ぜんぜんついていけていない。


「ええ、敗北。私はあなたに屈しました。あなたの存在が私に穢れを認めさせ、その意味を教え――――私にとっては無価値だったはずの穢れに、重みを与えてしまったのです」


 だというのに、神様はどんどん先を行く。

 呆然と瞬くだけの私に気付いているのかいないのか。浮かぶ表情はやはり微笑みのまま、今度は自嘲気味に口端を曲げた。


「神にとって、穢れを捨てることは本当は簡単なんです。浄化なんてせずに、文字通り消してしまえばいいのですから。神を歪ませる人間の激情なんて、聞かず、顧みず、なかったことにすればいいのです」


「え、ええと、神様」


 どうにか神様を制止しようと、私は場違いな声を上げた。

 ちょっと一度待ってほしい。少しだけでいいから、考える時間がほしい。

 そう思って勇気を振り絞ったというのに――。


「すみません、少し待って――」

「でも」


 ください、の言葉も神様は待たない。

 こちらの言葉を遮って、彼は混乱する私の前で顔を上げる。


「私には捨てられませんでした」


 傾げていた首を戻し、のぞき込む形から真正面へ。

 自嘲めいた表情も消した真剣な顔が、まっすぐに私を見据えていた。


「歪みによって知った、あなたへの想いを忘れたくなかったのです」


 ――――――。


 感情が、追いつかない。

 言葉がなにも出てこない。

 なにか言おうと口を開くけれど、出てくるのは浅い呼気だけだ。


 考える時間なんて、神様は少しも与えてくれない。


「私がこの地に残るのは、博愛でも、憐憫でも、慈悲でもありません。神らしい感情ではありません。ただ、ここにあなたが生きているからです」


 暗闇の中、神様の言葉だけが落ちてくる。

 私はなにも言えず、他の音も聞こえない。

 すぐそばで流れる水の音も、にぎやかな祝勝会の騒ぎ声も、今の私の耳には入らなかった。


「私はあなたを守りたい。あなたの生きる場所、あなたの大切なもの、あなたの喜びを。――できることなら、あなたの、一番近くで」


 だから、と告げる神様の顔を、手燭のあわい火が揺らしている。

 私は今、その顔をどんな目で見つめているのだろう。


「だから、エレノアさん。改めて伝えます。――今度は代理ではなく、押し付けられたわけでもなく、本当の意味で」


 その言葉を、どんな顔で聞いているのだろう。

 たぶん――たぶんだけど、きっとものすごい顔をしているような気がする。


 だけど神様は、吹き出しもしない。呆れもしない。

 微笑さえも浮かべていない。


 ただ、ひどく――切実なくらいに真剣な表情で、私に向けてこう言った。


「私の、聖女になってくれませんか」

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