21話 神様④

 ――優しくはない……?


 言われた言葉の意味がわからず、私は神様を見上げながら眉をひそめた。

 いや、意味自体はもちろんわかる。だけどこの状況で、この場で言う意図がわからない。


「神様――」

「エレノアさん。私は、この地の人間たちを裁くことを止めました」


 どういうことか、と疑問を口にするよりも、神様が口を開くほうが早かった。

 彼は私を制するようにわずかに目を細め、その表情のまま話し続ける。


「それは、私が人間というものを理解したからです。……私は人間を知り、穢れの意味を知り、私が人間を理解していなかったことを理解しました」


 言いながら、神様は顔を正面の暗闇へと向ける。

 逸れた彼の視線に、私は内心で――たぶん、ほっとしていたのだと思う。

 身の竦むような底知れない目は、今はどこでもない遠くを映して瞬いている。


「そして、私だけではなく、多くの神々が勘違いしていたことを理解しました。人間とは弱く儚い、有限の命。父神が最後に生み出した赤子なのだ、と」


「赤子……」


「ええ」


 無意識につぶやいた言葉に、神様はかすかに顎を引く。

 あわい手燭の火に照らされた横顔から、だけど感情は読み取れない。

 微笑むような表情は、光の加減でときおり冷たいくらいの無表情にも見えた。


「地上は不完全な生命のゆりかごとして作られました。守らなければならない、拙い命を慈しむための場として。――私たちの過ちは、その事実が永遠に変わらないと思い込んでいたことです。いつまでも手を引き、正しきへと導かなければならないのだと」

「…………」


 だけど、人間は神の手を拒んだ。今から千年前、もう神々しかしらない遠い昔。

 この地の人間たちは、父神である創造神に逆らい――そして、アドラシオン様とともに、神殺しを成し遂げてしまった。

 法廷で、神様がそう語っていたのを覚えている。


「人間の変化は、神にとってはあまりにも早すぎたのです。父は独り立ちを許さず、母は目を背け、アドラシオンは肯定しました。…………そして私は」


 神様は闇を見つめたまま、少しだけ言葉を迷うように目を伏せた。

 口はためらいがちに一度つぐまれ、しかしすぐに開かれる。


「…………私は、変化を認めます。認めざるを得ませんでした。ですが同時に、私にはアドラシオンのようにすべてを肯定することはできませんでした」


 手燭の火が揺れ、神様の横顔を撫でる。

 暗がりに浮かぶ神様の表情は、今は無表情に近い。

 闇に慣れた目が、深い影の中で、神様が両手を握り直したことに気付いていた。


「穢れの意味は知りました。それが人間にとって、どれほど意味のあるものかも理解しました。穢れを認め、人間を認め、の天秤では量れない重みを認めました」


 そのうえで、と神様は言う。

 いつもと変わらない穏やかな声、やわらかな響き。

 それなのにどうしてか、背筋にひやりと冷たいものが走る。


「そのうえで、私はやはり、人間を愚かしく思うのです」


 前を見据える神様の目は深い。手燭の火さえも届かないほどに、濃い影が落ちている。

 どれほど見つめていても、彼の横顔から感情がうかがえない。

 はるか、深淵を覗き見ているような心地だった。


「私はアドラシオンのように、穢れを尊いとは思えない。醜さを美しいとは思えない。穢れはたしかに人の価値であり、同時に罪でもある。……楽園を拒み、神を弑した事実は、消えることはありません」


 息を呑む私の横で、神様はゆるりと首を振った。

 重たげにまぶたを閉じ、再び開いたときには、先ほどまでの冷たさも感じない。

 顔に浮かぶのはいつもの、ほっとするような微笑みだ。


「私のような神は、きっと地上を去るのが正しいのでしょうね。人が自らの足で歩きだした今、彼らに必要なのは庇護ではなく、アドラシオンのように同じ目線で歩く存在です」

「神様……」


 自嘲気味な神様の言葉に、私はなんと声をかけたものかと思いながら呼びかける。

 去らないでほしい。残ってほしい。そんなことを考えていた――かどうかは、正直なところ私自身にもわからない。

 そこまで考えるよりも先に――――。


「それでも、私は地上に残ることを決めました。母の愛を失ったこの地で、人間たちを守っていこうと思っているのです」


 神様が私に振り向いて、こう言ったからだ。


「どうしてだか、わかりますか?」

「………………えっ」


 ――どうして……って。


 そんなことを急に聞かれても、もちろん答えはすぐに出てこない。

 どうしてだろうと反射的に考えてしまうけれど――おそらく神様は、最初から答えなんて聞くつもりはなかったのだろう。


「エレノアさん」


 彼はかすかに小首を傾げ、考える私をのぞき込む。

 そのまま、私の姿を瞳に映し込み、目の中に閉じ込めるかのようにゆっくりと瞬くと――。


「あなたがいるからですよ」


 ふっと笑うように、短い言葉を告げた。

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