20話 神様③

 沈黙は短かった。

 短かったけれど、恐ろしいほどに痛くて長く感じられた。


「――――ああ」


 瞬き一つする程度の、短くて長い間のあと。

 聞こえたのは、ため息にも似た言葉だった。


「だから、私に会いに来たのですね」


 神様の声は静かだった。

 穏やかでやわらかな、いつもと変わらない声に、驚きや戸惑いの響きはない。どうしてそんなことを聞くのだろう、という疑惑もない。

 彼の声音から窺えるのは、納得の感情だ。

 私の視界の端で、神様は『腑に落ちた』とでも言いたげに目を細める。


「私のことを気にかけてくださったんですね、あのときの返事のことで」

「…………その、はい、まあ」


 まあ――と言いながら、私は視線をさまよわせた。

 神様には目を向けられない。いつもの天然ぽやぽやにぶにぶ神様らしくない察しの良さに、体はますます強張っていく。


 だって、当たり前だ。

 だって、神様がそういう言い方をするということは――。


「そうですね。エレノアさんが考えていらっしゃる通り、『そういう』意味もあります」


 つまりは、こういうことなのだ。

 私はぎゅっと、膝の上の手に力を込めた。


 指の先は、冷たくて熱い。握り込んだ手のひらには、じんわりどころではなく汗がにじむ。

 やっぱり神様は、プロポーズのつもりであの言葉を言ったのだ。

 やっぱり私は、その言葉をまったく気付かず無碍にしたのだ。

 そしてやっぱり、私は大勢の人が見ている前で、神様の言葉に『もとから聖女ですから!』と胸を張って答えたのだ。


 ――う、うああああああああああ…………!!!!!


 恥ずかしいのか、罪悪感なのか、あるいはもっと別の感情なのか、もはや私自身にもわからなかった。

 とにかく今の私にできるのは、喉の奥から漏れるうめき声をこらえて、どうにかして返事を絞り出すことだけだ。


「…………そ、う……だったん……ですね……」

「ええ」


 消え入りそうな声の私とは裏腹に、神様の反応はひどく落ち着いていた。

 いったい、私は神様の前でどんな表情をしているのだろう。横顔を見る神様の口からは、苦笑さえも漏れている。


「ですが、そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。私もあのときは、思わず言ってしまっただけですし――」


 くすくすと笑いながら、神様は振り向かない私にそう言った。

 声は優しい。慰めるようでもあり、宥めるようでもあり、少しでも気持ちを軽くするようでもあり――だけど。


「こういうことは、もっと落ち着いた場所で、改めて伝えないといけないと思っていましたから」


 口にする言葉は、少しも気持ちを軽くしない。

 優しい声は強くもあり、私の心を突き刺すように、鋭くもあった。



 ――――――――ええと。


 聞こえた意味を理解するまで、しばらく。

 私は前を向いたまま、無言で瞬いた。


 背後からは、水の音と騒ぎ声がする。騒ぎ声にまぎれた幻聴――というには、聞こえた声ははっきりとしすぎていた。


「…………」


 私の右隣。噴水のへりに置かれた手燭の火だけが揺れる中、私は浅く息を吐く。

 吐きながらも、言葉を噛みしめるように二度、三度と瞬きを繰り返し――それから。


「………………改めて?」


 ようやく意味を呑み下した瞬間、私は神様へと顏を向けていた。

 神様に顔を見せられない、なんて考えていたことは、完全に頭から抜けていた。ほとんど反射のように振り向く私へ、神様はにこりと微笑みかける。


「ねえ、エレノアさん」


 それは冷たい美貌には似合わない、いつもと同じやわらかな笑みだ。

 それでいて、いつもとは少し違う。

 笑みをたたえる瞳の奥。私を映す瞳に浮かぶのは――。


「私は、アドラシオンほど優しくはないんですよ」


 少しもぽやっとなんてしていない。

 呑み込まれそうなほど深い夜の色だった。

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