19話 神様②
「ああ、こらこら。エレノアさんは怖くないですよ」
神様はたしなめるようにそう言って、びちびち暴れる異郷の神様――黒いぷにぷにを両手で慌てて押さえた。
だけどその言葉は、ぷにぷにには伝わっているのかいないのか。あまり大人しくもならず蠢く塊に、彼は困ったように息を吐く。
「すみません、エレノアさん。彼、少し人間に苦手意識があるみたいで……」
「い、いえ。こちらこそ、急に近づいてしまってすみません……?」
謝罪を口にしつつも、語尾に疑問符がついてしまうのは仕方ない。
だって私としては、これでも勇気を振り絞って神様に会いに来たのである。途中、いるはずのない
暗い夜。噴水の前。二人きり。変に雰囲気まであるせいで、どう話題を切り出せばいいか分からずまごついてしまっていた。
そこへ飛び出してきたのが、元グランヴェリテ様なのである。予想外すぎる。
なにがなんだか、状況がさっぱりわからない。
――ええと……たしかこの……このお方? はユリウス殿下が神殿で保護するとかおっしゃっていたような……?
さっぱりわからなくはあるものの、私は思い出すように法廷での記憶を手繰る。
建国神話に残る神々ではないとはいえ、このお方もまた神の一柱。無礼な扱いはできないということで、殿下は神官たちに保護を命じていたはずだ。
神官たちは王家の兵の監視の元、黒い塊をうやうやしく掲げて法廷を出て行った。その後ろ姿までは、私も覚えている。
だけどその後は、バタバタしていてさっぱり覚えていない。大事件に次ぐ大事件、からの祝勝会という慌ただしさの中で、申し訳ないけれどこの小さな神様のことは、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
それが、まさかの再会である。
いやどう考えても怖がられているのだけど。一歩近づけばびちっと跳ね、一歩足を引けばぷにっと大人しくなる。
そのくせ神様は平気らしく、ぺったり張り付いているのがなんとも悔しい。ちょっと羨ましい。私もぺったり張り付かれてみたい――という邪念はさておいて。
「どうも彼、部屋を抜け出してきてしまったようなんです。人間は怖がるのに、誰もいないのも寂しかったのでしょうね。騒ぎの近くでフラフラしているのを見かけて、放っておくわけにもいかず拾ってしまいました」
疑問符を浮かべる私に、神様は苦笑しながら事情を説明した。
腕は相変わらず黒い塊を抱え、気を落ち着かせるように表面を撫でている。黒い塊もおかげで少し落ち着いたのか、私が一歩近づいてもびちびち暴れることはなくなっていた。
「ただ、それから離れなくなってしまって。……いい機会だからいろいろ話を聞こうと思いましたが、あまり自分のことも語ってくれません。こちらの意思は通じているみたいなんですけど」
「そう……なんですね」
困ったように語る神様に、私はあいまいに相槌を打った。
視線を黒い塊に向ければ、今度は暴れることもなくむずむずと身を震わせる。なんとなくだけど――暴れ疲れて、今度は眠くなってしまった、みたいなしぐさだ。
「話をする気がないのか、そこまで信用してもらえていないのか、話せないほど幼いのか。――あるいは、もともと人型の神ではないのかもしれません。穢れの底で聞いた声は、声というより彼の意志そのものだったのでしょうね」
ぽんぽんと黒い塊を叩く神様の手は優しい。
神様の腕の中、安心したように丸くなるその姿は、たしかに幼い子どものようにも、神様にだけ懐いた犬か猫のようにも思えた。
「どこから来た、どんな神様かもわからないんですね……」
丸くなったきり、眠るように動かなくなった黒い姿を見つめて、私はぽつりと呟いた。
神とは、人を超越した存在。神であるからには、どれほど幼かろうが私よりはるかに長く生きているし、獣の姿であろうと優れた知恵を持っているものだ。
人間が神をどうこう思うなどとおこがましい。神様をぽやぽやと思い、アドラシオン様を朴念仁と思い、ルフレ様を生意気と思う私が言えた口ではないけれど、本来はおこがましいことなのである。
それでも、目の前の小さな姿を見ると、つい考えてしまう。
怯えて、泣いて、それでも寂しくて抜け出してしまうこの異郷の神様は――まるで心細さに震える、迷子の子どもみたいだ。
「……彼のことは、ゆっくり知っていくしかありません」
思わず黙り込んでしまった私に、神様はゆるく首を振ってみせた。
そのまま顔を上げ、私に向けるのは微笑みだ。焦ることはない、と言いたげな柔らかい笑みで、彼は静かに言葉を続ける。
「この姿では、きっと記憶も失っています。無理に聞き出したところで、彼自身でも答えられないでしょう。今は神殿に慣れ、人に慣れていただきましょう。……そうすればいずれ、彼にとっての聖女も見つかるはずですよ」
「…………そうですね」
私はそう言うと、小さく息を吐きだした。
この暗闇の雰囲気のせいか、どうにも深刻に考えすぎてしまっていたらしい。神様の言う通り、今から気を揉んでいたところで仕方ないのだ。
同じ黒いぷにぷにだった神様だってなんとかなったのだから、まあきっとこの小さなぷにぷにの方もなんとかなるだろう。
そもそも初期の神様なんて、『ぷにぷに』どころか『どろどろ』だ。しかも悪臭までしていた。
それに比べれば、こちらは最初からぷにぷにのもちもち。神様よりもよほど状況がいいと言える。
――案外、すぐに元のお姿を取り戻せるかもしれないわね。
うん、と内心で頷けば、気持ちも前向きになる。
いつの間にか俯いていた顔を上げ、私は微笑む神様に笑みを返そうとし――。
「それより、すみません、話の腰を折ってしまって。私になにか聞きたいことがあるんでしたか?」
笑みはそのまま凍り付いた。
話が最初に戻ってしまった。
「エレノアさん?」
私の内心など知らず、神様はきょとんと首を傾げてくる。
プロポーズを無下にされ、傷ついているのではないかとハラハラしていたのは、どうやら私の方らしい。なんてこともなさそうに用件を聞く神様の端正な顔が、今はひどく憎らしかった。
しかしどれほど憎かろうとも、さすがにここまで来て引くわけにはいかない。
私は凍り付いた顔に力を込め、ついでに両手も力を込めて握りしめる。それから、大きく深呼吸をすると――覚悟を決めて足を踏み出した。
「――――神様」
一歩、二歩。三歩めで噴水の手前。
ためらう心を振り切るように、思い切って神様の隣に腰を下ろす。
「私、あのときの言葉の意味を聞きに来たんです」
私が近くまで来ても、眠ってしまったのか黒い塊は動かなかった。
もうこの場に、話を遮ってくれるものはない。逃げることのできない暗闇の中で、神様が私を窺い見ている。
「あのとき、ですか?」
不思議そうに問いかける神様へ、私は顔を向けられない。
膝の上で両手を握りしめ、私が見つめるのは真正面の暗闇だ。
背後に響くのは水の音。少し離れて聞こえる、祝勝会の騒ぎの音。静かなようでいて賑やかなこの場所で、私は震えるような心臓の音ばかりを感じながら――。
渾身の勇気でもって、言葉を絞り出した。
「あのとき――神様が私に『聖女になってほしい』と言ったのは…………どういう意味だったんですか?」
すぐ横で、神様が瞬く気配がする。
私は神様に振り向けない。
指の先まで強張り、息を呑んで返事を待つ今の私の顔なんて、見せられるはずがなかった。
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