15話 ソワレ

「……なんだよ」


 肉に手を伸ばした状態で、レナルドはちらりと視線をソワレに向ける。

 黒髪の闇の女神は、夜闇に溶け込みどうにも姿を捉えにくい。体の小ささも相まって、すっかりレナルドの影と同化していた。


 それでも、彼女が未だ俯いていることは見て取れる。

 ずっと額を押し付けたまま顔を上げないソワレに、レナルドは口元を歪めた。


「食べすぎなんて今さらだろ。急にどうした」

「体、壊しちゃうよ。長生きできないよ」

「長生き、なあ」


 言いながら、歪んだ口元が皮肉げな笑みに変わる。

『長生き』なんて言葉が、神の口から出るとは思わなかった。人間の寿命なんて五十年か六十年。長く生きたって、せいぜい八十年程度なのだ。

 百年、千年を超えて生きる神々には、すべては一瞬のこと。十年も二十年も変わりはしない。


「お前らにとっちゃ、人間の『長生き』なんて大差ないだろ。どっちにしろ、必ず先に死ぬんだ」

「そうだけど」


 ソワレの声は不機嫌そうだ。

 しがみつく手には、さらに力が込められる。

 レナルドの指は肉を掴めない。ソワレはまだ、顔を上げようとはしない。


「……どうせ、死んでも人間は生まれ変わる。記憶を失くしても、神にはちゃんと見つけられる。お前、自分でそう言ってただろ」


 人間にとっての終わりは、神にとっての終わりにはならない。

 神話にうたわれる少女のように、記憶を持ったままとはいかずとも、人の命は巡るもの。死んでもまた、いずれどこかで生まれ変わるのだと神々は語る。


 それを別人だ、と思うのは人間の考え方だ。

 神にとっては、一度愛した命。たとえすべての記憶を忘れていようと、姿かたちなにもかも変わろうと、慈しむべき同じ相手なのだという。


 少なくとも、ソワレはそう言っていた。

 夢を見る少女の顔で、何度だって会いに行くと。


「そうだけど!」


 だけど今は、かつての自分の言葉を否定するように首を横に振る。

 声は弾かれたように強く、荒く、震えていた。


「でも、嫌なの! 嫌だったの!! 怖かったの!!!」


 己を掴む手も震えていることに、レナルドは少し遅れて気が付いた。

 小さな影はレナルドにしがみついたまま、駄々を捏ねるように首を振り続け、荒く息を吐き、ぐずぐずと鼻を鳴らす。

 まるで幼い子どものようだ。それでいて、不思議といつもよりも、大人びているようにも感じられた。


「…………いかないで」


 かすれた声が暗闇に落ちる。

 レナルドはなにも言えないまま、黙ってその声を聞いていた。


「一日でも、一秒でも、ほんの少しでもいいの」


 かつては年上だった。いつの間にか追いついていた。

 もうずいぶんと追い抜いてしまった。

 いずれは、どうやったってレナルドは彼女を置いていく。

 それでも、交わることのできたほんのわずかな時間を噛み締めるように。


「長く生きて…………」



 絞り出すような声は、夜に紛れて消えていく。

 それきり、ソワレはなにも言わない。しがみつく手も離さない。

 顔もやっぱり上げないまま、顔を押し付けられた服の裾だけが濡れていく。


「………………ああ、くそっ」


 しんと静まり返った闇の中で、レナルドはたまらず舌打ちをした。

 黒い小さな影から目を逸らし、伸ばした指の先を睨む彼の表情が苦々しく歪んでいく。

 ユリウスもエレノアも勝手だが、なによりも一番わがままで勝手なのは誰だったのかを、改めて思い知らされた気分だ。


「これくらいしか楽しみがないってのに」


 背中に張り付くソワレを感じながら、レナルドは恨みがましく吐き捨てる。

 人のいないテーブルには、まだ料理が山ほど残っている。一度も手をつけていない皿もあちこちにあるというのに、なんて酷なことを言うのだろう。


 そうは思っても、結局彼は逆らえないのだ。

 尽きることを知らない女神の涙には、昔も今も、ずっと。


「…………しょうがねえなぁ」


 レナルドはぼやきながらも肉へ伸ばした手を引っ込めると、これからはもう少し健康に気を使うかと、行き場を失った手で頭を掻いた。

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