12話 ユリウス④、レナルド③

 腹に触れる細い腕を見下ろし、レナルドはゆっくりと瞬いた。

 考えることは山ほどある。神殿のためにやること、やらなければならないこと、目の前の問題に、先々に待ち受けている困難。ユリウスの言葉に、無数の思考が頭を巡る。

 だけど最初に口にしたのは、実に素朴な――心からの疑問だった。


「…………なんで、俺なんですか」


 腕からユリウスに視線を戻し、レナルドはぽつりと呟くように問いかける。

 ユリウスがなそうとしているのは、この国の未来を守るための大事業だ。決して簡単には成し遂げられない、先の見えない手探りの道。重たい責任を負った偉業のいしずえ

 その責任の一端を担う相手として、自分を選んだ理由がわからなかった。


「俺が殿下と話したのはこれが初めてです。アドラシオン様のお姿のあなたとも、言葉を交わしたこともほとんどありません。……はっきり言って、神官としての俺は傍から見てもろくでもなかったと思います」


 レナルドの十六年は、他人を蹴落とし、取り入ることだけに費やしてきた。

 平民の出自からのし上がる道なんて、権力者に気に入られる他にない。実力で認められようなんていう甘い話は、『ある程度の身分』があってこそ。実力があろうがなかろうが、そもそも底辺には、目をかけられるための『目』が向くことさえもないのだ。

 同期の神官たちからはなりふり構わない手段に眉をひそめられた。目上の人間からは道化と思われた。貴族出身の連中からは疎まれた。

 彼が裏もなく接することができたのは、せいぜい明確に目下と思える相手だけだ。


「もっとまっとうな人間はいくらでもいます。国のために尽くしたがる酔狂なやつだって、今の神殿にも少なくはありません。俺より頭のいいやつも、優秀なやつも」


 自身が劣った人間だとは思わない。神殿内では、優秀な方だという自負もある。

 だけど、だからこそ彼は知っている。

 この神殿には、正当な手段で実力を認められた、もっときれいな人間がいる。

 挫折して道を踏み外すこともなく、汚い手段に手を染めることもなく、その必要さえも知らない。レナルドのやり口に堂々と眉をひそめられる、恵まれた生まれと恵まれた能力を両方与えられた幸福な人間がいる。

 あるいはレナルドのようになりふり構わない手段をよしとはせず、実力がありながら不釣り合いな地位に甘んじる、能力と人格を兼ね備えた人間もいるのだ。


 その中で、どうして自分に声をかけたのかが理解できなかった。


「まあ、それはそうだな」


 レナルドの疑惑に、ユリウスは拍子抜けするほどあっさりと頷いた。

 そのまま腹に当てていた拳も離し、たいして未練もなさそうに足を引く。


「俺からすればお前の言う通りだ。優秀ではあると思うが、お前はどうにもやり口が汚すぎる。信頼を置くには権力への執着も強すぎて、もう少し野心がない人間のほうがいいと思っていた」

「なら――――」

「だが、リディは評価していた」


 なぜ、の言葉より先に告げられた答えに、レナルドは口をつぐんだ。

 ユリウスは一歩足を引き、ちょうど全身が視界に映る距離。己を貫く強い視線に、体が射すくめられたように動かない。

 喧騒だけが遠く響く祝勝会の片隅。まるで場違いな夜の静寂を、ユリウスの言葉が満たしていく。


「俺は彼女に、神殿の人間を見てもらっていた。まだ見習いの神官から、お前のような高位神官、神殿兵、神職ではない使用人たちまで。貴族も、平民も、身分も立場も違う人間を分け隔てなく、偏見のない彼女の目で」


 レナルドは平民の出自で、後ろ盾もない。

 華やかな容姿も、貴族に気に入られるような突出した技能もない。


 貴族からしたら、平民の出自なんて底辺みたいなものだ。平等を謳う神殿で同じ神官として勤めながら、二つの身分は決して交わることはない。

 他人を蹴落とす以外に道はなかった。目を向けられた連中が全部いなくなって、やっとレナルドに渋々お鉢が回ってくる。

 それも決して、安泰の身分ではない。より『きれい』な身分の人間が現われれば、すぐに取り換えられるような立場だ。


 まっとうにやっても仕方がないと思っていた。

 どうせ認められることなんてないのだと思っていた。


「能力の高い人間は他にもいた。もっと素行の良い人間ならいくらでもいた。優しい人間、志の高い人間、人の扱いに長けた人間。有能であるとか、人格者であるという意味であれば、彼女の目にかなう人間は他にも多くいた」


 だが――と続く声を、レナルドは震えるような心地で聞いていた。

 呼吸は浅く、わずかに肌が粟立っている。

 王子の目は不遜でありながら、決して見下すことはない。

 ずっと変わらず、レナルド自身を見据えていた。


「だが、彼女が『悪い男ではない』とまで言ったのはお前だけだ。俺はなによりも、彼女のその目を信頼している。――もっとも、彼女は『かたくなすぎる』とも言っていたがな」


 そこで一度言葉を切り、ユリウスはレナルドに向ける目を細めた。

 声の出ないレナルドの真正面。蝋燭の火に揺れる瞳の色は、面白がるようでもあり、期待するようでもある。

 持ち上げた口端は、笑みをかたどっていた。

 それは神ならざる男の、どこまでも食えない――――だけど優しい、人の微笑みだ。


「うるさい連中に揉まれて、少しは柔らかくなったみたいじゃないか」


 激励にも似たその指摘に、レナルドは思わず己の体を見下ろした。

 あのとき、法廷でのあの瞬間。咄嗟に体が動いていた。他人のために体を張るなんて、らしくない行動を取った。

 ソワレのため、目的のため、他のすべては捨てたつもりでいたのに。


 自分でも気づかなかった変化を、どう受け止めればいいのだろう。

 王子の言葉を噛み締めるように、レナルドは無言で息を呑み――――。




「――――――ユリウス殿下!!!!」


 呑んだ息を吐きだすよりも先に、静寂を裂く声を聞いた。


「なんで殿下がこんなところにいるんですか! リディは!? 一緒じゃないんです!? あっ、ごめんレナルド、話し中だった!? いえ、でも今はそれどころじゃなくて――――」


 声の発生源は、例の『うるさい連中』の一人。

 一番うるさくて騒がしい問題児、エレノア・クラディールが、まじめに思い悩むのも馬鹿馬鹿しいほどの騒音を立てながら近づいてくる。

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