8話 ルフレ③

 エレノアが意を決するのは、思いのほか早かった。


「そう――ですよね」


 うつむき、強張り、見るからに動揺した彼女の横顔に覚悟が宿る。

 ひとつ大きく深呼吸をすれば、逃げていた瞳も定まった。


「ちゃんと、答えないといけないですよね。本当にそういう意味だったら」


 重たげに、だけど勢いよく顔を上げるエレノアに、ルフレは笑みのまま内心で鼻白む。

 なんだ――とは言わない。両手を固く握りしめ、迷わず立ち上がるエレノアを無言で見上げるだけだ。


「私、神様を探して来ます!」


 それだけを言い残すと、彼女は彼女らしく、振り返りもせず走り去る。

 猪突猛進。猪と言うべきか、暴れ馬とでも言うべきか。荒々しく遠ざかる足音に、今度は内心ではなく舌打ちする。


 ――もう一押しくらいは必要かと思ったんだけどな。


 想像よりもずっと潔いエレノアが不愉快だった。

 なにをするべきか理解していることがつまらなかった。

 言い訳をして逃げる余地はあったのに、曖昧なまま誤魔化さない。それが誰のためなのかと思うと、どうにもこうにも腹立たしい。


 あれだけ顔を寄せれば、以前はもう少し動揺してみせていたのに。

 顔を上げ、前を向き、瞳の映し出す先は定まっていた。きっともう、揺らぐこともないくらいには。


「…………あーあ、かわいくねーの」


 エレノアの消えた雑踏を見つめたまま、ルフレはぼやくように呟いた。

 どうせあの鈍感女、顔を上げたときの自分の表情なんて気づいていないのだろう。

 きらめくような瞳の色。あふれる感情を堪えて結ばれた口。かすかに染まる、頬の色。全部かわいくない。

 わずかにも期待を残させない誠実さが、少しもかわいくない。




「――――ルフレ様って」


 面白くなさに顔をしかめるルフレへ、ふと向けられたのは静かな声だ。

 神への敬意があるのかないのか。神妙さとからかいを混ぜ込んだその声は、見透かしたようにルフレへ問いかける。


「もしかして、損をする性格でいらっしゃいます?」

「…………酔ってたんじゃねーのかよ」


 誰かより少し大人びた声に、ルフレはしかめた顔をさらに苦々しく歪めた。

 声はすぐ隣。いつもなら振り返って相手の顔を睨んでいるところだけれど、今のルフレではそうもいかない。腹立たしくも顔を背け、彼はごまかすように頭を荒くかく。

 今の表情を、誰かに見られるなんてたまらなかった。


「あーあー、損ばっかだよ、くそ!」


 金の髪をかき乱し、吐き捨てるのは意地でも生意気な言葉だ。

 去っていったエレノアの背に向け、怒りと不満と恨めしさと――言葉にはならないいろいろなものを込めて、彼は感情を吐き捨てる。


「人間に関わっても、いつもろくなことがねーよ。ムカつくし、嫌なことだらけだし、ぜんっぜん報われねー!」


 思えばよかったことなんてどれほどあっただろう。

 建国神話からこの国で人と関わり、もう千年。報われたことなんてほとんどない。

 苦しいことや辛いことは山ほどあるのに、喜びなんて数えるくらいしかなかったように思う。


「どいつもこいつも、こっちの気なんて知りもしねえ! 自分のことばっかで、わがままで、勝手なことしかしねーし、助言も忠告も聞かねーし……!」


 身を滅ぼすとわかっていても、それが危うい道と知っても、人間が素直に立ち止まることなんてなかった。誰を傷つけても、自分が傷ついても、人間はどこまでも愚かしく突き進む。

 馬鹿馬鹿しくなって、国を出て行った神々の気持ちもよくわかる。人間を恨み、悪神に堕ちる神の気持ちさえ、ルフレには共感できる。

 ルフレだって、何度見捨ててやろうかと思ったかわからなかった。


「……でも」


 だけど、彼はまだここにいる。

 人間たちから背を向けようとしたとき、いつも必ず『でも』が口をついて出る。


 ムカついても、嫌なことだらけでも、報われなくても。

 それでも。


 目の奥に、去っていった少女の背中が残っている。

 泥のような醜さの中でもがき続ける、人間そのものみたいな少女。

 穢れの底に大切なものを抱え、前を向き、足を踏み出すその瞬間が――きらめくように、眩しい。


 ルフレは光の神だ。

 光から生まれた光の欠片。光を慈しむ存在、だから。


「それも含めて、俺は人間が好きなんだよ」


 いずれ指の間をすり抜けていくとしても、彼は一瞬の生を眩しく駆ける人間たちを、見つめずにはいられないのだ。






 言葉を切ったルフレに、隣の声の主はなにも言わなかった。

 酒に酔い、盛り上がる周囲の喧騒の中、人の少なくなったこのテーブルだけは静かだ。

 すっかり夜も更け、まばらな星の散る空の下。静けさにルフレは嘆息しようとして――。


 ガシャン、とグラスを倒す音を聞いた。


「…………」


 ついで聞こえるのは水の滴る音。さらには笑い声。

 いかにも愉快そうに「おほほ」と笑う声――いやこれ「がはは」のほうが近いな。

 ろくでもない笑い声にろくでもない予感がし、振り返るまいとしていた隣へ嫌々振り返ってみれば――やはり。

 飲みかけのグラスを倒して笑い転げる、最悪の酔っ払いが目に入った。


「やっぱり酔ってんじゃねーか!」

「酔ってないですー!」


 しかも生意気にも反論してくる。

 先ほどまでの大人びた声音はどこへやら。幻聴だったかと思えるほど酔いのまわった声に、ルフレは苦い顔をする間もない。酔っ払いが倒れて空になったグラスに気付き、さらなる惨事を起こそうと、おぼつかない手つきで酒瓶に手を伸ばしたのだ。


「待て待て待て馬鹿! お前ぜったい倒すだろ!」

「あー! ルフレ様お酒かえせー!」


 慌てて酒瓶を取り上げれば、今度はルフレに向かって手が伸びてくる。

 たちの悪い酔っ払いに、落ち込んでいる暇もない。感傷もなにもあったものではない。

 さりげなく目の端を拭うと、ルフレは絡んでくる手をあしらいながら、嘆くように、笑うように叫んだ。


「くっそー! 報われねー!!」

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