30話 ※神様視点
周囲の光景は、暗闇から元の白木の法廷へと戻っていた。
崩れ落ちた天井から降り注ぐ陽光に、彼は無意識に目を細める。
法廷を埋め尽くした穢れは、今はどこにもない。
残されたのは、煤のように黒い穢れの痕跡だけだ。
その痕跡の、もっとも濃い場所。
崩壊した神の座の真下で、彼は自身が膝をついていることに気が付いた。
「…………」
膝の感覚がある。
見下ろし、自分の体を確認するための、視界がある。
「…………体が」
ある、とは言えなかった。
下を向く彼の視線の先。黒々とした穢れの痕跡の上に差す、影の形を見つけたからだ。
法廷に揺れる、無数の燭台が落とすその影は――。
「神様…………」
座り込む彼を上から覗き込む、人の形をしていた。
「こんの無鉄砲! なんて無茶をしたんです! なんでこんな無茶をしたんですか!!」
次の瞬間、聞こえたのは耳を割るような怒声だった。
間近で響く大声に、彼の体がびくりと強張る。すすり泣きと嘆きの満ちる暗闇との落差があまりに大きすぎて、思考がすぐに追いつかなかった。
――ええ……と?
荒ぶる声に顔を上げれば、見慣れた少女の怒りの形相が目に入る。
同時に、腕に締め付けられるような痛みがあることに気が付いた。
彼の手首を、少女の強い力が掴んでいる。
「しかも人の話も聞かないし! 待てって言ったら待つ! ちゃんと話をする! 勝手に自分で決めない!!」
怒りを吐きながら、彼女は握りしめる手に力を込めた。
彼女の背後では、彼女の友人たちが苦い顔で「それ、あなたが言う!?」と抗議する。が、彼女は振り向きもしない。
鋭い目で彼を睨みつけたまま、さらに大きく声を張り上げる。
「いったい、どれだけ心配させるつもりですか! 神様!!!」
「…………」
きいんと響く声に、彼は一瞬、呆気にとられた。
射貫くような瞳。怒りに歪んだ表情。渾身の力で握りしめる手と――歯を食いしばっても、かすかに震える青ざめた唇。
彼女の気丈な怒りの底には、恐怖と安堵が覗いていた。
「…………エレノアさん」
ぽつりと、彼は怒る少女の名前をつぶやいた。
なにか言わないといけない。彼女に報いる言葉をかけなければいけない。
そう思いながら、彼は言葉を探して口を開き――。
「エレノアさん、すみません。私は――――あたっ」
言いかけた言葉は、やはり言えなかった。
口を開いた彼の頭上を狙いすましたように、なにか――やわらいなにものかが、『もちっ』と落ちてくる。
反射的に受け止めてしまったそれは、ひどくなじみ深いものだった。
どこまでも深い黒い色。丸みを帯びた不定形の体。ぬらりとした光沢。片腕に収まる大きさであること以外は、かつての彼とほとんど同じ。
悪神から引き戻された神が、腕の中でもちもちと蠢いている。
蠢く小さな神の姿に、彼は知らず息を吐いていた。
深いため息の後に出てくるのは、なんとも苦い笑みである。
「……私、かっこ悪いですね」
結局、堕ちゆく神をここまで引き戻したのは人間たち自身だ。
それを支えたのは、穢れの外にいた他の神々で、彼はなにもできなかった。
いや、なにもできないどころか、エレノアに心配までかけさせていたのだ。
どれほど探したところで、もとより今の彼がかけるべき言葉など存在しない。
ふがいなさに力ない笑顔でエレノアを見上げれば、しかしエレノアは怒りの形相のまま、虚を突かれたように瞬いた。
彼女の口から吐きだされる怒声も、一度止まる。
口をつぐんで、瞬きを一つ、二つ。三つ目の瞬きの後で、彼女の顔がさらに険しく歪んでいく。
それはだけど、たぶん怒りとはまた違う。
ひどく不機嫌そうな、苦笑する彼よりもいっそう苦々しそうな――だけどやっぱり怒ったような表情で、彼女は低く呟いた。
「……別に、かっこ悪くはないですよ」
逃げるように、視線を横へと逸らしながら。
幻のように、静かに、ぽつりと。
「私、これまで神様が格好悪いと思ったこと、ないですよ」
こちらを見ない彼女の、栗毛色のまつげが影を落とす。
燭台の火を映して、瞳が揺れるように色を変える。
どことなく悔しげな口元に、深い眉間のしわ。
あ、と彼は口の中でつぶやいた。
――…………あ、あれ?
おかしい。
頬が熱い。
そっぽを向いた彼女の不機嫌な横顔から、目を離せない。
「…………で、でも! それとこれとは話が別で!」
続くエレノアの言葉は聞こえなかった。
周囲のざわめきも、無事を喜びあう人々の声も、耳に入らない。たぶん、目にも入っていなかった。
彼は瞳に、エレノアだけを映して息を呑む。
いったいこれは、どうしたことだろう。
いつものように穏やかな気持ちでいられない。いつもどこかしらに残っていた神ゆえの余裕が、今は一片も見当たらない。
頬は奇妙なほどに熱かった。エレノアに握られた腕も熱い。頭までもが熱を持ち、気持ちはそわそわと落ち着かない。
まるで、全身が茹で上がったような心地だった。
「…………あ」
エレノアを真正面から見つめられず、彼は反射的に目を伏せる。なのにやっぱり、すぐに顔を上げて目に映す。
エレノアの瞳に、彼の金の瞳が映ったとき――
「あ、あの!」
彼は衝動的に声を発していた。
手は無意識に、己を握るエレノアの腕を握り返す。
「あの…………」
なにを言おうとしているのかは、彼自身にもわからなかった。
ただ、内側からこみ上げてくるものがある。神から余裕を消し去り、理性を押しのけるなにか。
心の底からあふれる感情の任せるままに、彼は言葉を告げていた。
「ねえ、エレノアさん――――」
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