29話 ※穢れの外へ
「――――ヨラン!」
エレノアの腕を掴んだと思った瞬間、今度は彼の腕が掴まれた。
己を掴むのが誰であるかは、振り返って確認するまでもない。相手は、物心つく前から共に育った男だ。
「オルガ、手を離せ! お前まで呑まれるぞ!」
エレノアは掴んだものの、穢れから引っ張り出せない。重たい穢れはヨラン一人の力ではどうしようもなく、エレノアを奥へ奥へと呑み込もうとする。
掴んでしまったからには、ヨランは手を離せない。
だが、オルガは違うはずだ。
エレノアの『他人』である彼に、巻き込まれる義理はない。
「お前にエレノア・クラディールを助ける理由はない! 離せ!」
「馬鹿! 違うだろ!」
振り払おうと腕を振るヨランに、オルガは背後から怒鳴りつけた。
腕を掴む手はますます強くなる。まるで、エレノアごとヨランを穢れから引き出そうとするように。
「俺は、お前を助けたいんだよ!」
絶対に離すまいというように、彼は両手で、力強くヨランの体を引っ張った。
「お前が残っているのに、手を離せるわけ、ないだろ!!」
○
――あ。
最初に気が付いたのは、たぶんルフレだった。
エレノアを追って穢れに飛び込む無茶苦茶な聖女たちを追いかけ、どうにか足の遅いソフィの指先に届いたとき。
同じようにエレノアを追い、穢れの中へと手を伸ばすリディアーヌを、アドラシオン――ユリウスが掴んでいた。
レナルドの背にはソワレがしがみついている。
ヨランをオルガが捕まえて、そのオルガの体を、さらにオルガの友人たちが引っ張っている。
ユリウスを、彼を敬愛する兵たちが掴んでいる。
ソワレへと、彼女に救われた神官たちが手を伸ばしている。
ルフレの背にもまた、手を伸ばしてくれる聖女たちがいる。
つむじ風が吹いている。
かすかに、薔薇の香りがする。
姿を見せられなくなってもまだ人を見捨てきれない神々が、どうにか救えないかと取り巻いている。
――できる。
神が、人の手を取っている。
人が、神の手を取っている。
触れている。
――穢れを、浄化できる。
○
人間は愚かだ。
どこまでも自分本位で、醜く、矮小な存在だ。
人は神のようには愛せない。博愛も平等も知らない。見知らぬ誰かのために尽くせない。
人の持つ愛は小さく、いびつで、狭い。
彼らが愛せるのは、己の手が届く範囲だけ。両手に収まるだけのささやかなもの。
だけど愛している。
誰もを愛せなくても、誰かは愛せる。
大切な友人であれば。親しみを抱く相手であれば。交わした義理があれば。
手の届く距離にいる、見知った誰かのためならば。
手を伸ばせる。
○
暗闇は薄れていく。
人から神へ、神から人へと受け渡され、嘆きの声は小さくなる。
人が、人の穢れを赦していく。
ねえ――と彼は闇の中で呼びかけた。
ねえ、闇の底ですすり泣く、異郷の神よ。
人を愛し、人に裏切られ、それでも傷つけることを拒み、光に縋った優しい神よ。
「人間も、そう悪くはないでしょう?」
重たい闇が、人の手でほどけていく――――。
「神様――――――」
差し込む光の強さに、彼は顏をしかめた。
暗闇から見上げる光は、なんて眩しいのだろう。
なんて温かく――なんて、美しいのだろう。
「――――捕まえた!!!!!!!!」
一度握りしめたもののために、光を背に闇へ飛び込み、間違えることなく掴み取る。
彼女は、なんて美しい『人』なのだろう。
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