28話 ※穢れの外

「――――あの、お馬鹿!!!!」


 穢れへ向かうエレノアを見て、リディアーヌは怒りにも似た声を上げた。

 相手はこの裁判所を埋め尽くすほどの穢れ。エレノアが触れればひとたまりもないことは、誰の目にも明らかだ。

 だけどエレノアは止まらない。背後で引き留める人々の声など、耳にも入っていない様子だった。


「無鉄砲すぎてよ! あなたはいつも、いつも!!」


 叫びながら、リディアーヌはエレノアの背を睨みつける。

 止めないと――なんて、思ったのかどうかは、彼女自身も定かではない。


 ただ、届きそうだった。捕まえられそうだった。

 だから彼女は、手を伸ばしていた。無鉄砲だと罵った口で、穢れに向かうエレノアを追いかけながら。






「ギャー! バカバカバカ! なにやってんのよ!!」

「信じられない! ほんっと信じられない!!」


 遠ざかるエレノアの背中に、マリとソフィは揃って悲鳴を上げた。

 これまでも無茶苦茶をやる友人だとは思っていたけれど、今度ばかりは洒落にならない。どう考えても自殺行為である。


「あたしの目の前で飛び込み自殺すんじゃないわよ!!!」

「勘弁してよ! こんなのトラウマになっちゃうわ!!」


 誰かのために、自分を犠牲にするほど立派な心の持ち主ではないとわかっている。

 危険を顧みずに助けなきゃ――なんて思ったわけじゃない。


 だけど見ていられなかった。自分が、見ていたくなかった。

 だから彼女たちは追いかける。穢れに怯え、なるべく触れないようにしながらも、エレノアを必ず捕まえてやろうと。






「ふざけるな、クソガキが!!!!」


 制止の言葉などまるで聞かないエレノアに、レナルドが苛立ちを吐く。

 脳みその欠片も使っているとは思えない。あれが本当に『お上品な貴族様』なのかと、疑わしくてならなかった。


「厄介ごとを増やすな! ちくしょう!!」


 エレノアに向けて怒鳴りながら、彼は重たい体で足を踏み出す。

 エレノアの方がすばしっこいが、距離的にはさほど遠くない。多少穢れに塗れはしても、どうにか引きずり出すことくらいはできるだろう。


「待って、だめ! いかないで!」


 背後から引き留める少女の声は聞こえていた。

 それでも彼は足を止めない。危険は知っている。ただで済むとは思えない。きっとここで立ち止まって見過ごしても、彼を非難する者はいないだろう。

 だとしても――。


 ――そうもいかねえよ。


 だって彼はエレノアに義理がある。以前、同じ状況で、彼は彼の女神を助けられてしまっている。

 彼は誰かのために命を賭けるような柄ではない。端から、そこまでしてやるつもりも毛頭ないが――。


 ――その手前くらいまでは体を張らなきゃ、情けなさすぎるだろうが!


 すっかり切り売りして擦り切れた彼のプライドが、惚れた相手の前で情けない姿を見せることを許さないのだ。

 だから彼は、暗闇へと走っていく。義理と意地と、見栄のために。






 一番、距離が近いのはヨランだった。

 裁判でエレノアを背に立っていた彼は、リディアーヌよりも、マリとソフィよりも、レナルドよりも、誰よりも近かった。


 迷うことはなかった。

 彼はエレノアに対する友情も、親しみも、張り合うための見栄もない。エレノアと言葉を交わしたのは、建物内をさまよう数時間だけ。他の連中のように、強く思い入れる相手ではない。


 だけど誰よりも早かった。

 怒りを思考に挟むこともない。声を上げるまでもない。横をすり抜けて消えていく背中に、彼は足が痛むことも忘れて前へと踏み出し、手を伸ばした。


 ――俺は助けられた。


 理由なんかそれだけだ。

 それで十分だった。


 ほんのわずか、相手を知った。ほんのわずかに情を抱いた。見知らぬ他人ではなくなった。

 伸ばせば、手が届きそうだった。


 それ以上の理由なんていらない。




 エレノアが穢れの中へ消える寸前、迷いのないヨランの手が、彼女の腕を握りしめた。

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