27話 ※神様視点

 ――――――――憎い。


 冷たさが肌に触れる。

 辺りは暗闇だった。一切の光のない、冷たく重い闇。


 ――憎い、憎い、憎い。


 まとわりつく感情は、誰のものとも知れない。闇の中に無数の声が凝縮し、澱のように淀んでいる。

 羨ましい、恨めしい、憎らしい。誰かの足を引き、誰かを蹴落とし、誰かを下に見る。あまりにも多すぎる声の中で――聞こえたのは、すすり泣く声。


 ――愚かな。


 それは神の声だ。

 深い深い諦念の底に沈み、もはや失望することにも飽いた、穢れに沈む哀れな神。


 ――人間とは、なんと愚かな。


 かつて人を愛し、守り、そして裏切られた。

 異郷の神の嘆きが、闇の中に静かに満ちていた。


「………………」


 肌に触れる穢れを通して、堕ちゆく神の切れ切れの記憶が流れ込む。

 遠い異郷の地。人を愛した神。神を愛し敬う人々。

 人々を守るために穢れを受け止めた。

 人々を生かすためにおのが身を削った。

 百年、千年、人は栄え、神は衰え、そして異形に堕ちたとき――。


 ――あまりにも、愚かな…………。


 人は神を切り捨てた。無力で無能の役立たず。醜い、おぞましい、化け物と。

 それでも神は人を憎めないまま、悪神に堕ちるまいと逃れ、逃れてこの地へと流れ着く。浄化を求め、光を求めて。


 しかし見出した穢れなき光は、空虚な空白にすぎなかった。

 比類なき浄化の力がありながら、その力は誰に向けられることもない。隣に立つ神の救いの声にも気が付かず、無垢な光は穢れを呼び続ける。それはさながら、虫を誘う夜の光のごときもの。


 集う穢れを、神は受け止め続けた。

 限度を超えてもなお、堕ちていきながらも、なお。

 神はもはや反射のように――あるいは、わずかに残った人間たちへの情のために。


 ――――――わたしが愚かだった。


 すすり泣きの声がする。

 人間に手を貸そうとしたのが間違いだった。愛したことが誤りだった。

 人間はどこまでも愚かしい。自分本位の、卑小で醜い生き物に過ぎない。


 生命の本質は奪うこと。

 誰かを恨み、誰かを疎み、誰かを踏みつけなければ生きてはいけない。

 それが、他人を滅ぼす結果になろうと。

 それが、自分自身をも滅ぼす結果になろうとも。


 人間は、生命は、どこまでも醜い。

 決して、彼らは神のようにはなれないのだ。


「…………そう、だな」


 無数の嘆きを受け止めながら、彼はぽつりと闇に向けてつぶやいた。

 堕ちゆく異郷の神の声を否定することはできない。否定するつもりもない。


 彼もまた、同じように堕ちゆく神だったのだから。


「私にも、よくわかる」


 穢れに触れた白い指先が、黒く染まっていく。

 やはり、形は保てない。崩れていく彼を染め上げるのは、我が身かわいさに神を侵す人の声だ。


 清廉な人間など存在しない。人間である限り、無垢でいることはかなわない。

 彼らは例外なく身勝手で、自分の身の回りしか見つめられず、神のように多くを愛せない。

 彼らの抱く愛は狭く、脆く、自分本位だ。

 神が価値を見出すには、人間という存在はあまりにも小さすぎる。


「人間は愚かで、醜く、救いがたい――」


 暗闇が粘りつく。体の感覚は薄れていた。目に映るすべては暗黒で、もはや視界が残っているかも定かではない。

 異郷の神へ語りかけるこの口さえ、もう消え果てているのかもしれない。


「でも」


 それでも、彼はまだ言葉を紡いでいた。

 誰へ届けるわけでもなく、誰に聞こえなくとも。


 人間は愚かで、醜く、救いがたい。

 生まれながらに歪んだ失敗作。神にとっては無価値なもの。醜悪な穢れを無限に生み出す、邪悪の源。

 多くを愛することはできない。平等に愛することもできない。無私の心を知らず、他人のためには手を差し出せない。


 それでも――――――。






「――――――神様!!!!!!!!!」


 声が聞こえる。


 闇を裂いて、手が伸びてくる。

 深く冷たい闇の底へ、迷わずに、ためらわずに。

 穢れを恐れずに、前へ、前へと。


 ただ、その手が届く距離にある、ほんの小さな愛のために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る