25話
一拍遅れて、法廷に悲鳴が響き渡った。
逃げろ、と誰かが叫んでいる。血相を変えた人々が、法廷の出口へ向けて走り出す。
だけど、私は動けなかった。
呆然と立ち尽くしたまま、目の前の光景に目を見開く。
アマルダを呑み込んだ穢れは、見る間にその体を膨らましていった。
これまで大人しくしていたのが嘘のようだ。粘り付く体を揺らしながら、神の座を呑み、その下にある裁判官の席を呑み、なおも大きくなっていく。
裁判官の席に座っていた神官たちは、絶叫しながら我先にと逃げ出していた。互いに押しのけ合う彼らを、逃げ遅れた順に穢れが呑み込んでいく。
断末魔にも似た悲鳴に交じり、みしりと鈍い音が響いた。
それが高く伸びあがった穢れの、天井を割る音であると、私は少し遅れて理解した。
天井から、がれきの破片が落ちてくる。
そのがれきさえも穢れに呑まれる。
いつの間にか、周囲は暗く陰っていた。
火は赤々と灯っているのに、まるで日が暮れたように薄暗い。
出口を目指して逃げ出したはずの人々が叫んでいた。囲まれている。扉も壁も、穢れに変わっている――と。
白木の法廷は、真っ黒に染まっていた。
穢れが天井を這い、壁が重たく蠢き、足元が粘ついている。
それでも、私は動かなかった。
恐怖のため――だけではない。
あまりにもいろいろなことが起こりすぎて、混乱しているからでもない。
騒然とする法廷の中心。
ただ一つ、慌てることもなくその場にとどまる人影があるからだ。
「…………神様」
「エレノアさん、下がっていてください。あれはもう穢れではありません」
私の言葉に、神様は振り返らずにそう告げる。
その声もやはり、静かで穏やかだった。
「あれは災厄です。堕ちた神の、最後の姿。人間たちが『悪神』と呼ぶものです。人間の力では、どうすることもできません」
災厄、と私はつぶやく。
魔物とはまた違う、集まりすぎた穢れが引き起こすものだ。
災厄が起こればただでは済まない。人にも町にも甚大な被害が出る。
かつて、小さな国一つが滅びたことがあるとさえ言われていた。
「アマルダさんを呑み込んで、『彼』は完全に堕ちてしまいました。……いえ、おそらくは、もっとずっと前から手遅れだったのでしょう。いずれにしても、放っておける状態ではありませんでした。――彼も、アマルダさんも、神殿のことも」
悲鳴の中に、神様の声が淡々と響く。
どこまでも落ち着いて、柔らかい響きは――まるで、なにもかもわかっていたみたいだ。
「だから今日は、いい機会だと思っていました。……本当は、もう少し穏やかに話をするつもりでいたのですが。いろいろと、驚かせてしまってすみません。怖い思いもさせましたよね」
申し訳なさそうに言ってから、彼はすぐに首を横に振る。
暗い影が落ちる中で、左右に揺れる彼の髪だけが、場違いなくらい鮮やかだった。
「でも、大丈夫です。穢れを知ったアマルダさんは、もう以前ほど人を惹きつけることはできません。神殿のことは、アドラシオン――いえ、今はユリウスでしたね。彼が対応してくれるので、当面は問題ないでしょう。それに、災厄のことは」
そこで一度言葉を切ると、神様は少し顔を上へ向けた。
私に背を向けたまま、彼が見つめるのは暗闇の中心。
……災厄が蠢く、神の座だ。
「私がいます。そのために、私は今、ここにいるんです」
「神様……?」
笑うような柔らかな声に、私は眉をひそめた。
いつまでも振り向かない神様に、嫌な違和感がある。
思わず近づこうと足を踏み出して、私は足元が妙に重たいことに気が付いた。
固い石の床が粘りつく。染みのような暗い穢れが、ついに地面までも覆ったのだ。
法廷はもう、ほとんど前も見えないくらいに暗かった。
天井も穢れに覆われているのか、ときおりひどく重たい塊が、べちゃりと地面にしたたり落ちる音がする。
逃げ惑う人々の悲鳴は止まない。
耳の割れそうな叫び声が響く中、穢れはますます大きさを増していく。
限度など知らないかのように、人々を呑み込みながら膨れ上がっていく。
それでも、神様は落ち着いていた。
どこまでもどこまでも、いつもと変わらない調子で――。
「ねえ、エレノアさん」
そう言って、ようやく私に振り返った。
「私が彼の穢れを受け止めます。すべての穢れは難しいでしょうけれど、彼を悪神から引き戻せる程度には引き受けるつもりです。――これは、他の神には任せられません。みんなすでに、限界ですからね」
こちらを向く神様に、瞬間言葉が出なかった。
言われたことを、すぐに理解することができない。
神様が――――なにをするって?
「ですが、実は私もあまり余裕はないんです」
瞬く私へ、彼は両腕を少しだけ持ち上げて苦笑する。
この暗闇の中でもわかるほど、深い闇の色をした腕。肩近くまで穢れに染まった腕を一瞥し、神様は私の顔を覗き込む。
その瞳の色に、私は息を呑んだ。
いつもと同じくやわらかく、いつもと同じくどこかぽやんとした瞳の色。
なのに、たしかにわかる。その目の奥に、揺らぐことのない強い覚悟がある。
「なにもかも無事に済む、ということはないでしょう。もしかしたら、以前のように醜く変わり果て、記憶も力も失くしてしまうかもしれません。これまでのことも、エレノアさんのことも、この心さえも忘れるかもしれません」
エレノアさん、と神様はもう一度口にする。
まるで噛み締めるように、ゆっくりと名前を呼ぶ。
焼きつけるように、神様の目が私を映している。
「私は、必ずエレノアさんを守ります。エレノアさんも、エレノアさんの大切なものも、全部守りたいんです」
でも。神様の囁くような声が響く。
立ち尽くす私に、神様の目が細められた。
こんなときまで――いつも通りに。
「でも、もしも私がなにもかも失って、もう一度あの醜い姿に変わったときは――――ねえ、エレノアさん」
いつも通りに、優しく私に微笑みかけている。
「そのときはまた、私をあなたのお傍に置いていただけますか?」
「神様……待ってください」
思考が追い付かない。
頭が混乱して、考えがまとまらないい。
少し待って欲しかった。一度、落ち着いて考えさせてほしかった。
だけど、どうにか絞り出した私の言葉に、神様は答えなかった。
問いかけておきながら、きっと最初から返事を聞くつもりなんてなかったのだろう。
最後に笑みを深めると、彼は私に背を向けて歩き出す。
「待って、神様……!」
穢れへと進む神様に、私は引き留めるように叫ぶ。
響き渡る悲鳴よりも、ずっとずっと大きく声を張り上げる。
「神様!!!!」
だけど神様は振り返らない。
彼の足取りに迷いはなく、ためらいもない。
人間を――私を守るために、彼はもう覚悟を決めてしまっている。
どんなに声を上げても止まらず、遠ざかっていく神様の背中を見つめながら、私は――――。
私は。
私は、怒っていた。
猛烈に怒っていた。
当たり前である。
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