21話 ※神様視点

 天上で、アマルダが愕然としたように目を見開く。

 口元を隠す手は落ちていた。半笑いの口元が、すぐに傷ついたように結ばれる。

 顔に浮かぶのは、見る者の同情を誘う表情だ。

 虐げられた被害者の顔で、何度もそうしてきたように、アマルダは青い瞳に涙をにじませる。


「そん……な……そんな言い方するなんて…………」


 ひどいわ、という言葉は、しかし続かなかった。

 それよりも先に、割り込んできた別の声があったからだ。


「――そ、それでは! それでは、神よ!!」


 裏返った声で叫ぶのは、アマルダの真下に居並ぶ老神官たちの一人。

 もはや威厳などかなぐり捨て、声を荒げる神官長だ。


「アマルダ・リージュを裁かないということは……だ、誰を裁くおつもりですか!?」


 喘ぐような神官長の悲鳴に、彼は視線を天井から下へと落とす。

 金の瞳が、老いた顔を映し出した一瞬。神官長は怯えたように「ひっ」と喉をひきつらせた。


 青ざめた老人の顔には、アマルダとは対照的に罪の意識がありありと浮かぶ。

 額に冷や汗を滲ませ、視線をさまよわせ、震える口の端を噛むのは、自分のしてきたことを自覚しているからだ。


 アマルダは獣。

 人の世にあって、彼女の常人ならざる純粋さは、たしかにある種の人々を惹き付ける。気の弱い者、自分に自信のない者、迷いや悩みを抱えた者にとって、アマルダは強烈な光だった。

 だが、彼女自身はあくまでも、自分の欲望に忠実であったに過ぎない。


 アマルダは無垢であり、無垢以外のなにものでもない。

 本来、彼女が女王でいられるのは、ほんの小さな箱庭の中でのみ。多くの人間たちの集まる場所では、彼女の本質はいずれ知れ渡ってしまう。


 知れてしまうはずだったのだ。

 誰かが意図して、アマルダを聖女に仕立て上げようとでもしない限りは。


「わ、我々とて、知らなかったのです! 御身の――グランヴェリテ様の神託が偽りであるなど、そんな畏れ多いこと……!」


 神官長は、喉の奥から絞り出すように言葉を吐く。

 誰を――と問いながら、老人はその答えを自ら導き出しているのだろう。

 だからこそ恐れ、震えながらも、断固として認めるわけにはいかないのだ。


「だ、だいたい、千年前の試練ではないですか! 罪を犯したのは、千年前の人間でしょう!? 罪を重ねてきたのも、我々だけではないはずでしょう!? なのに、どうして私の代なのですか! 我々にばかり、千年分もの罰を受けろなど、あんまりではないですか!!」


 恐怖と嘆き、それに半ば八つ当たりめいた憤りを込め、神官長は叫ぶ。

 血走った目の奥にあるのは、獣ならざる罪悪感。罪の意識を持ちながら、償いを拒むのも人間らしさだ。

 この男もまた、人間なのだ。エレノアと同じように。


「……私は、あなた方を罰しませんよ」


 ひとつ息を吐くと、彼は緩く首を横に振った。


「私が裁くのは、この地に生きる『人間』そのもの。あなた方を個別に裁きに来たわけではありません」


 彼は神として地上に降り立った、公平なる裁定者だ。

 アドラシオンの献身により、『人間』の罪を量ると決めた以上、その前提を覆すことはできない。

 人間に与えられた選択は、天秤の傾きによる二択のみ。すなわち、滅びと存続のいずれかしかなかった。


 穢れは重く、天秤は滅びへと傾いている。

 神が決断を下しさえすれば、この地に住まう人間は、すぐにでも洗い流されることだろう。

 老いも若きも、抱く穢れの大小も関係なく、地に染み込んだ大神の血ごと、なにもかも。


「ですが、私は人間を裁きません。裁きに来た――と言ってしまいましたが、すみません、今の私は裁くだけの資格を持っていないのです」

「…………は」


 神官長が、ぽかんと呆けた顔をする。

 呆気にとられた老人を見つめながら、彼はかすかに口元を歪めた。


 それはおそらく、自嘲の笑みなのだろう。

 千年前の彼であれば、決して浮かべることのなかった表情を、今は不快でもなく浮かべているのが不思議だった。


「私の目は、曇ってしまったのです。醜いものを美しく思い、無価値なものに価値を見出す今の私に、穢れの重みを正しく量ることはできません」


 人間は醜く、穢れもまた醜い。

 人間のあがきなど、神にとっては無意味であり、無価値。

 獣と人間は分かたれない。どちらもただ、不完全な命を持った父神の失敗作に過ぎない。


 神たる彼はそれを理解している。

 だけど神ならぬ、体の内に抱えた穢れが、その理解を否定する。

 誰にとって無意味でも、無価値でも、人間はあがかずにはいられない。

 それが人の心なのだ、と。


 知ってしまった以上、彼にはもう、決断を下すことはできなかった。


「天秤は壊れ、裁きは与えられません。だからあなた方に伝えるのは、ただ、試練の結末だけです」


 自嘲の笑みのままに、彼はゆっくりと口を開く。


 これから告げるのは、左右にしか傾かないはずの天秤の、ありうべからざるもう一つの結末。

 絶対の天秤を破壊した、千年の穢れと穢れを抱く少女の導く、人間の未来だ。


「決断は、神の手から離れました。この大地は永遠に赦されず、しかし罰されることもない。――人間たちは、この地で生き続けるのです。自らの生み出した罪と、穢れとともに」


 大地は血と穢れに塗れたまま、母の愛は失ったまま。

 神々の祝福失くして草木は育たず、腐り果てるだけの不毛の地。

 そこで生き続けることが幸福か不幸かは、今はまだわからない。


 いずれは穢れに覆い尽くされ、人間たちは呑み込まれるのかもしれない。

 あるいは今度こそ、人間たちはこの地を捨て、他の地へと逃れるのかもしれない。


 それでもきっと、あがき続けるのだろう。最後までもがき続けるのだろう。

 それを彼は、もう、醜いと思うことはできない。


「裁きは人の手に返しましょう。罪も罰も、赦しもまた、人の元へ。試練は終わり、未来は人間たちに委ねられました」


 響くのは、建国神話の終わりを告げる声。

 重荷を吐くように言葉を吐くと、彼は最後にもう一度、神官長へと視線を向けた。


「神は人間の作る法で、人間を裁きません。――あなた方はどうぞ、人間の裁きを受けてください。罪の意識があるのであれば」


 神の目に見据えられ、神官長がぎくりと身を強張らせる。

 畏れ、恐縮したように竦む神官長の――――瞳の奥。


 今にもひれ伏しそうな態度とは裏腹の、いかにも人間らしい、往生際の悪い色が宿っていることに、もちろん彼は気が付いていた。

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