20話 ※神様視点

「――人の穢れとは、いったいなんなのだろうな」


 かつて弟に尋ねたのは、彼の方からだった。


「どうして人は、穢れなどを抱くのだろうか」


 他の獣は抱くことのない、人だけが抱く醜い感情。

 澱のように重く、闇よりも深く、どこまでも粘ついた人の悪心。

 大地を穢し、神さえも侵す穢れとはなんなのだろう。


「生まれながらに醜さを抱いているからでありましょう。――生き物とは不完全なもの。永遠の命なく、争わなくては生きていけない。もとより失敗作なのです」


 その答えを先に見つけたのは、だけどそう言って冷淡に切り捨てた、弟の方だった。



 〇



「獣……? 獣ってなんのことです?」


 きょとんと呆けた顔のアマルダを、彼は静かに見つめていた。

 口元を手で覆い、不思議そうに瞬くアマルダへの彼の印象は変わらない。

 どれほど見つめても、かれには彼女が美しいとしか思えなかった。


 この、穢れの渦巻く法廷の中心にいながら、すぐ傍に蠢く穢れがありながら、彼女は今も変わらず清らかなまま。

 誰の悪意にも染まらない。悪意の一切を知らない彼女は、無垢で無邪気で――無自覚。

 さながら野生を生きる獣、そのものだった。


「……アマルダさん、人間は不完全なものなのですよ」


 彼はそう言ってから、緩く首を横に振る。

 視線をようやくアマルダから剥がすと、そのまま少しだけ目を閉じた。


「いいえ、人間だけではなく、この地上にある『命あるもの』すべてが不完全でした。なに一つとして、完全なものはありません」


 遠い過去、アドラシオンが言った人間への評価は正しい。

 生き物とは不完全で、生まれながらに醜さを抱いているもの。

 永遠の命を持たない、争わなければ生きてはいけない失敗作だった。


「創造神たる父神は、命を生み出すことに失敗したのです。地上のものたちは、神と同じようには生きられない。なにかと競い、なにかを犠牲にし、なにかを取り込まなければ命を保てない、歪みを持って生まれたものでした」

「グランヴェリテ様……?」


 頭上から聞こえるアマルダの戸惑いの声に、彼は答えない。

 代わりに閉じた目を開くと、そのまま周囲の人間たちへと視線を向ける。


「それを補うために、神は最初に赦しを与えました。すべての命に等しく、ただ一つの罪への赦しを」


「罪……」


 周囲から漏れ聞こえる声に、彼は「ええ」と頷いた。


 それは絶対的な、原初の赦し。

 神の与えた、最も大いなる祝福。

 命が命であるために、必要であるもの。


 すべての命が等しく抱える、神の赦したその罪とは。



「――――他者を、踏みつけることです」



 他者を犠牲にすることを、神は罪としなかった。

 他者を傷つけ、争い、踏みにじり、奪うことを、すべての命は赦された。


 それが、神ならざる生命の本質であるからだ。

 生命とは本質的に、無垢に、無邪気に、そして無自覚に、他者を踏みつけるものだった。


「あなた方は生まれながらに罪を持ち、そして赦されていました。人も獣も変わらず、他者を喰らい、押しのけ、顧みる必要などありませんでした」


 それでよかった。

 それは楽園であった。

 一切の罪の生まれない、穏やかな箱庭であった。


 けれど――――。




 人は増長した。

 そう――増長という言葉が、なによりも似合うだろう。


 数多の獣たちの中で、人だけがそれを『良し』としなかった。

 己の中にある醜さを、神ならざる生物の本質を、いつしか人は受け入れなくなった。


 不完全な生物でありたくない。

 神のようにありたいと、願うようになってしまった。




「――――けれど、人間は赦しを拒みました。生命の本質であるあり方を、自ら『罪』と定めました。生命であれば必ず持ちうる感情を、『悪意』であると。自らには不要なものだと定め――切り離そうとしました。神のように、清らかであるために」


 それこそが、人間の過ち。神へと手を伸ばす最初の一歩。

 楽園の終わりのはじまりだ。


「神になり替わろうという人間の傲慢さから、穢れは生まれました。人間の醜さ。悪意そのもの。なによりも人間自身が嫌悪する、神ならざる人間の本質」


 ゆえにこそ、穢れは醜い姿を取る。

 人間自身が認めたくない、自身の『悪意』であればこそ。穢れは決して受け入れられない罪の形として、世にもおぞましく、汚らわしい姿をしているのだ。


「穢れとは、人間の愚かしさ。人間の罪であり、醜さであり、傲慢の証です」


 神たる彼にとって、穢れとはどうしようもなく醜いものだ。

 まるきり、自らの首をくくるようなもの。手に入れた安寧をわざわざ捨てて、苦しみもがきながら、恨み言を吐くばかり。

 他者を巻き込み、神をも侵し、それでも清らかでいようとする人間を、愚かでないとどうして言えるだろう。


 それでいて――――。


「――――穢れとは」


 彼は同じ言葉を繰り返す。

 胸に消えぬ穢れを抱いた人間たちを見回しながら。


 穢れの底で嘆いていた少女を想いながら。


「人間の、祈りです」


 言葉とともに、彼は己の胸に手を当てる。

 肩まで黒く染まった腕。未だ渦を巻く穢れ。頭に響く嘆きの声。

 恨みも、妬みも、憎しみも――――抱きたくはなかった。

 醜い感情を拒絶する。清らかでいたいという、誰も踏みつけたくはないという、人間の祈り。

 あまりにも愚かで、切実な、叶うはずのない願い。


「清らかでありたいと願う人間たちの、罪悪感の形。悪意の自覚と、拒絶の現われです。生命の本質を否定してでも、認められない。認めていたくない。心からの叫びとあがき」


 口にするなにもかもは、神にとって無価値なものだ。

 悪意は赦されており、生命である限り本質の否定は意味をなさない。

 人間は、誰かを踏みにじらなければ生きられない。あがいたところで、人が神に変わることはできない。


 それでも、彼は知ってしまった。

 人間の醜さ。人間の心。

 醜さの裏にある、『完璧な神』のままでは知りえなかった心のありかた。


「穢れとは、誰も傷つけたくないと願う心の裏側。人間だけが得た、人間と獣を隔てるただ一つの差異。――――他者へと向ける、優しさの萌芽ほうがなのです」


 穢れとは、人間の抱く愛の表裏。不完全な人の心、そのもの。


 穢れを知らなければ、人は愛を知ることもできないのだ。



 〇


 楽園の終わり。人々が無垢なる単純さを捨て、なにかが決定的に変わりはじめた時代。

 神と人の、原初の交わりの絶えるあの日。あの瞬間。

 咎人の娘は剣を取っていた。

 彼はそれを、神として見下ろしていた。


 娘は穢れに塗れ、腐り落ちた大地を踏みしめ、背後に逃れられぬ人間たちをかばいながら、恐れを呑んで神を見上げる。

 娘の傍らに寄り添うのは、誰よりも忠実で、冷徹であった弟神アドラシオンだ。

 人間へ関心を抱かず、穢れを不完全さと切り捨てた弟が、穢れを抱く娘を守り、自らもまた穢れを負う。


 かれには理解ができなかった。

 まるきり、狂気としか思えなかった。


 娘は健康であり、弟には力がある。

 逃げればよかったのだ。どこへなりとも行けば、彼もあえて追いはしない。

 人間とて、逃げた鼠を追いはしないだろう。彼にとっての人間は、鼠とそう変わりない。

 この地の人間たちは、父の血を洗い流すのに邪魔だっただけ。群れの主が群れを率いて逃げたならば好都合。それが最初に父の死骸を齧った鼠であったとして、猛り狂って追い回す真似などはするまい。


 神にとって人間は、その程度の存在だった。

 獣となにも変わらない。牙を得る代わり、知恵を得ただけの獣。

 平等に神の愛を受けながら、決して『個』への愛は注がれない。地上にあふれる数多の命の一つに他ならなかった。


 ――いいや。


 だけど、今ならわかる。

 あの娘は、獣ではいられなかったのだ。


 かつての王であった咎人の娘。民を愛し、それゆえの罪悪感に塗れ、父のようには逃げ出せない。

 消せない穢れを抱きながら、剣を取り、勝てないとわかって戦いを挑み、腐る大地に足を取られた愚かな娘。

 後悔と苦悩と絶望の底で、目を背けられなかった。見捨てられなかった。あがかずにはいられなかった娘の愚かしさを、浅ましさを、傲慢さを。

 あの、どうしようもなく哀れな不完全さを、きっと弟は「愛しい」と思ったのだ。


 アドラシオンには、もう娘を獣とは思えなくなってしまった。

 獣ならざる、神ならざる、『人間』の娘を愛してしまったのだ。


 〇



「アマルダさん」


 一つ息を吐くと、彼は戸惑い瞬くアマルダへ呼び掛けた。


「たしかに、あなたは穢れを知らない方です。私がこれまで見てきた誰よりも清らかで、美しく、無垢でした」


 アマルダは誰かへ穢れを生むことも、誰かの穢れに染まることもなかった。

 誰かが傷ついている姿を見ても、誰かの嘆きを見ても、ともに泣いていたとしても、彼女自身は穢れない。

 アマルダの優しい声は、誰のためのものでもない。傷ついた瞳も、零れ落ちる涙も、人を気遣うような言葉も、すべては嘘偽りのないただの虚無。

 そうすれば『良いことが起きる』と学習した結果。芸を覚えた犬のようなものだった。


 その裏で誰かが踏みつけられていることを、彼女は知らない。見つめない。たとえ見たとしても、そこに罪悪感は生まれない。

 当たり前だ。彼女にとって、人を蹴落とすことはのだから。


 そのことを、咎めるつもりはない。

 彼女は生命の本質に忠実な――神の思い描いた通りの、原初の姿だ。


 ――――だが。


 彼はアマルダを見つめながら、苦く口の端を歪めた。

 思えば彼女も哀れに思う。人でさえなければ、あるいは神のような命であれば、その美しさは美徳であったかもしれないのに。


 だが、アマルダは不完全な命と、人の形を持って生まれてきてしまったのだ。


「あなたは、人を人たらしめる穢れを知りません。知ろうとはせず、見ようともせず、理解しようとしませんでした」


 金の瞳がアマルダを捉える。

 何度見ても、どれほど見ても穢れない。どこまでも澄んだ彼女の心と――。


 口元を隠す手の隙間。わずかに見える笑みへ向け、憐憫を込めて問いかけた。


「それは、獣となにが違うというのですか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る