15話 ※神様視点

 腐り落ちた土地に残ったのは、逃れるすべのない老人と幼子ばかりだった。

 親は幼い子を見捨て、子は老いた親を見捨て、夫は病に伏せる妻を、妻は怪我に呻く夫を見捨てて逃げた。


 母の呪いは、血にまみれた大地だけだ。

 土地の外に逃げさえすれば、呪いが追いかけてくることはない。

 逃げる者は逃がすというのは、母に残された最後の愛情だったのだろう。


 傲慢な人間たちは、それすらも受け入れることはできなかった。

 咎人の娘は大地に残された人間を守るため、わずかな賛同者を味方に剣を手に取った。

 神に刃を向けた、最初の一人。この地の王であった娘の父が、とうの昔に逃げ出したあとも、なお。


 穢れた大地に立ち、自らも醜い穢れを纏いながら、娘は人々を背に、アドラシオンとともに抗い続けた。


 あの娘の纏う穢れはなんだったのだろうか。

 今の彼には理解できる。


 アドラシオンがなぜ、あの娘に惹かれてしまったのかも。


 もっとも――――。


「私はお前を止めなければならない」


 当時の彼に、それを理解できるだけの醜さは、ない。


「いかにお前が無類の強さを誇る戦神であろうと、力で私に勝てないことは知っているな?」


 〇


「――――真正面から争えば、私はアドラシオンには敵いません」


 過去の記憶をまぶたの奥にしまい込み、彼は静かに瞬いた。

 彼の言葉を聞くのは、千年先の人間たちだ。


「父神を打ち滅ぼすだけの力もありません。父神のように創造することも、母神のように命を育てることもできません。知恵も技術も、私より優れた神々がいるでしょう」


 それでも、と彼は続ける。


「それでも、父神を失くした母神は、私を最後の使者に選びました。アドラシオンを味方につけ、父神を殺しさえしたあなた方を、確実に滅ぼせる存在として」


 いかに無類の強さを誇る戦神であろうと、『力』では彼と争えない。

 どれほどの剛力であろうと、どれほどの知恵者であろうと、どれほど堅牢な守りがあろうと、彼の前ではなんの意味もなさなかった。


「それは、私が裁定の役割を持つからです」


 語りながら、彼は一歩足を踏み出す。

 怯んだように身を引く人間たちを、彼の目が見据える。


 驚く顏。戸惑う顔。怯える顔。

 その奥にある穢れの色まで、彼の金色の瞳は映し出していた。


 彼は、そのものの価値を正確に量り取る目だ。

 公正無私にして、なによりも冷たい。感情のない、絶対の価値基準。

 この世の価値の重みを比べ、『価値のあるもの』と『価値のないもの』に選り分ける冷徹なる裁定者。


 それは言うなれば、そう――。


「私は天秤です」


 その裁定には、神すら抗うことはできない。


「あなた方の罪と価値を載せ、存続ゆるし滅亡ばつを定める天秤。傾けばそれが、世界の意思となります」


 それこそが、父の亡き後、彼が最高神と呼ばれるゆえん。

 力で勝つことは叶わない。知恵を絞っても避けられない。

 母が心の底から紡いだ呪いさえ、彼が『赦す』と決めればほどけて消える。


 世界の意思を定める天秤。

 それが、何者も抗うことのできない、彼の神としての力だった。


 ――だからこそ。


 彼がまだ、ここにいる理由でもある。


「千年の試練は、私があなた方に与えた最後の機会でした。アドラシオンの献身が勝ち得た、価値を示すだけの猶予」


 彼は公正な裁定者だ。

 覚悟を対価に裁定を求められれば、それを拒むことはない。


 千年前、アドラシオンは覚悟を示した。

 母の正当なる怒りにすら制止をかけられるだけの、重い覚悟を。


「この猶予を得るために、アドラシオンは神性を捨て、命を賭けました。この大地に生きる人間には、それだけの価値があると。滅びを止めるだけの意味があると、信じて」


 誰よりも信頼する弟の覚悟に、応えないわけにはいかなかった。

 アドラシオンの命は軽くない。

 弟の覚悟に報いるために、彼もまたその身を差し出した。


「天秤の片側には、アドラシオンの命を。もう片側には人間たちの穢れつみを。穢れの重さがアドラシオンの命さえ超えたとき、私は今度こそこの地を滅ぼすつもりでいました」


 天秤は彼自身の体。

 猶予は彼の体が限界を迎えるまで。

 彼が穢れを受け止めきれずに悪神に堕ちたとき、血塗られた大地は穢れごと洗い流されるのだ。


「あなた方は、私が限界を迎える前に価値を示さなくてはいけなかったのです」


 そこまで言うと、彼は視線を持ち上げた。


 金の瞳が、天上で蠢く泥塊を映し出す。

 かつての彼の姿を、人間たちに思い出させるように。

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