7話

「神様……?」


 私は足を止めたまま、呼び掛けるでもなくぽつりとつぶやいた。

 神様は、どうして中へ入って来ないのだろう。

 どうして、暗い回廊の中に立ったままなのだろう。

 どうして――――彼はここへ来ることができたのだろう。


 アマルダが、見張りがいると言っていた。

 ヨランが、見張りは回廊を警戒していると言っていた。

 だからこそ、中から外へ出る分には隙を突ける、とも。


 それはつまり――逆に言えば、外から中に入る場合は、見張りの目から逃れられないということなのに。


 呆ける私の背後では、今もアマルダが神様を責め立てる。


「どうやってここへ来たの! みんなになにをしたの! ああ……かわいそうに……! みんな、なんにも悪いことをしていないのに、どうしてそんなひどいことを!!」


 悲痛な糾弾の声にも、神様は動かない。

 身じろぎ一つせず、表情一つ変わらない。

 動揺の一つもしない神様に、アマルダの声はますます大きくなる。

 まるで、見張りの兵たちを失ったことを、世界中の誰よりも苦しみ、悲しみ、哀れんでいると主張するように。


「いい人たちだったのよ! みんな、私の大好きな人たちなのよ!! なんの罪もない人たちよ!!! クレイル様は神様でしょう!? なのに、みんなを手に掛けるなんて……!」


 世界中の誰よりも、神様が罪深いかのように。

 聞いているだけでも胸が痛くなるような、心から絞り出すような悲しみの声で、アマルダは叫ぶ。


「冷たい方だとは知っていたけれど、いくらなんでもここまで――ここまで冷酷な方だったなんて!! どうしてそんなことをしたの!! どうして!!!!」


 ――――いえ。


 だけど私は、反射的にアマルダの声を否定していた。


 影の中に立つ神様へ、疑問を抱いているのは同じ。

 私もまた、今の神様の様子を奇妙に思う。

 見張りをどうしたのか、どうやってここへ来たのか。疑わしさは無数に浮かんで、消えることはない。


 ――いいえ、でも。


 それでも、わかる。

 ずっと傍にいたから知っている。


 回廊の暗闇の中。影の落ちた神様の笑みは――決して。


 決して、冷たいものなんかでは、ない。




「アマルダさん」


 アマルダの言葉にざわめく法廷へ、神様は一歩前へ出る。

 まだ扉の外。回廊の際で立ち止まると、彼は穏やかな笑みのままで、アマルダに向けて首を横に振った。


「アマルダさん、いいえ。私は見張りの方々に、なにもしていませんよ」

「嘘!!」


 背後から聞こえるのは、相変わらず身を切るようなアマルダの糾弾の声。

 涙に濡れ、震えかすれた叫び声だ。


「嘘を吐かないで! なにもしていないなら、見張りのみんなはどうしたって言うのよ!」

「どうもしていませんよ」

「そんなわけないわ! みんな、みんなあなたが手に掛けたのよ!! そうじゃなかったら――――」


 なかったら――の先は、しかし続かない。

 理由は単純。扉に目を向ければすぐにわかる。


「ええと……アマルダ様…………」


 神様の傍。扉の影。

 回廊から、遠慮がちに法廷内を覗き込む人影があるからだ。

 それも、一人だけではない。腰に剣を差し、胸に徽章を飾った男たちが数人――恐ろしいほどばつの悪い顔で、神様とアマルダを見比べていた。


 ――……神殿兵?


 兵たちの中には、見覚えのある顔も二人ほど混じっている。

 忘れもしない。彼らは私が法廷の前まで来たときに会った――――アマルダの言うところの、見張りの兵たちのはずだ。


「ええと、あの、その、アマルダ様」


 その見張りの兵たちが、アマルダを見上げながら、いかにも言いにくそうに口を開く。


「アマルダ様、すみません、その……俺たち、無能神に――この方に、助けていただいてしまって」

「穢れに襲われて……呑まれかけたところを、この方が引き上げてくれたんです」

「我々も通すつもりはなかったんですが、こうなると通るなとも言えず……」


 口々に告げられる兵たちの言葉に、私はぽかんと瞬いた。

 たぶん、法廷にいる他の人たちも同じなのだろう。

 ばつの悪い兵たちを前に、法廷中が呆気にとられたように沈黙する。


 もっとも――――。


「助けられたなんて……!」


 その沈黙は一瞬だ。

 すぐにまた、身を切るような叫び声が響きだす。


「騙されないで! 穢れはクレイル様から出たものよ! みんなみんな、助けたフリをしているだけ!! ぜんぶ演技なのよ!!」


 アマルダの叫びに、数人の神官の、「そうだそうだ」と便乗する声も聞こえてくる。

 すべて演技。自作自演。助けたフリ。嘘に決まっている。

 そうでなければ――――。


「そうでなければ、どうしてみんなを助けてくれないの!? こんな状況なのに、他にも穢れに襲われている人がたくさんいるのに! 放っておくなんておかしいじゃない!!」


 喉を嗄らしてアマルダが叫ぶ。

 悲しそうに、苦しそうに、心から。

 それがさっきまでアマルダが言っていたことを真逆であることなど、少しも気づいていない様子で。


「それだけの力があるのに、みんなを助けないのはおかしいじゃない! だってそれって――他のみんなを見捨てたってことでしょう!!?」

「いいえ」


 だけどそんなアマルダの叫びも、今の私には、ほとんど耳に入らなかった。

 背後の騒ぎ声を背に、私は先ほどよりもさらに呆然と、神様を見つめていた。


「いいえ、アマルダさん。違います」


 神様は少しも怯まず、怒ることもない。

 声も態度も穏やかなまま、さらにもう一歩、法廷へと足を進める。


 扉を越え、暗闇から明るい法廷の中へと踏み出す。


「私は見捨てませんでした」


 明かりの下、あらわになる神様の姿に、私は息を呑んだ。

 どうして神様がずっと影の中にいたのかを、この瞬間に理解する。


「見捨てられなかったんです」


 光の中で、神様が両手を持ち上げる。

 燭台の火に揺れるのは、いつもの透き通るような白い腕――ではない。


 光にさらされた神様の腕は、どこまでも暗い。

 穢れと同じ、深い深い闇の色をしていた。


「ここへ来るまでに出会った者たちすべて。人も、穢れも、誰一人――私は、見捨てることができなくなってしまったんです」


 神様はそう言うと、ちらりと私に視線を向け、かすかに目を細めた。

 穏やかに、やわらかに――それでいて、少しだけ寂しそうに。


 それは、慈悲深いだけではない。

 本当に――本当に優しい、神の微笑みだった。


 ――神様。


 神様の背後には、法廷を覗き込む顔がある。

 ばつの悪い見張りの兵たちの他にも、いくつもの顔がこちらの様子を窺っている。


 アマルダの取り巻きだったはずの神官。

 裁判所を守っていた神殿兵。

 裁判所で働く人々に――私たちを助けてくれた、王家の兵。


 それから――――。


「――――オルガ!!!!」


 ヨランの震える声が、その名前を呼んだ。

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