5話
目の前には、私を庇うヨランの背。
ぐるりと取り囲むのは、剣を抜いて距離を詰める兵たち。
足元で倒れる二人の兵に、彼らのかすかなうめき声。
神官たちの罵声が響き渡る。アマルダが神の座で、涙ながらに叫んでいる。
それらのすべてを、グランヴェリテ様は無言のまま冷たく見下ろしている。
がらりと色を変えた法廷の空気に、私は立ち尽くしていた。
ヨランを支える重みはなくなったのに、足が竦んで動かない。
不安と緊張で、指先が震えていた。
「…………ヨラン」
「逃げろ」
思わず呼び掛ける私へ、ヨランは突き放すように短く言った。
顔は前を向いたまま、振り返らない。
じりじりと近づく兵たちを、油断なく見据えている。
「扉まで迷わず走れ。走り出したら振り返るな。お前が逃げるまでは耐えてやる」
「耐えるって……!」
そのまま、振り返りもせず口にしたヨランの言葉に、私はぎょっと目を見開いた。
『逃げろ』『振り返るな』『耐えてやる』
それがどういう意味なのかは、さすがの私にだって想像がつく。
そしてその想像は、どう考えても悪いものだ。
――私一人を逃がす気……!?
「外の見張りは、回廊側しか警戒していなかった。中から外へ出る分には隙を突ける。お前一人でも逃げられるはずだ」
まさか、と思う私に、しかしヨランは淡々とそう続けた。
もはや否定のしようもない。
ヨランは私に、一人で逃げろと言っているのだ。
――でも、それって……。
言うべきことは言った――とでも言いたげに口をつぐむヨランを、私は息を呑んで見上げた。
逃げられるなら、そりゃあもちろん逃げ出したい。
ここから出られるのは大歓迎だけど――いくらなんでも、この状況で素直に「わかった」とは頷けない。
だって私は、道中ずっとヨランに肩を貸していたのだ。
彼を支えて歩いたのも、彼に痛み止めの魔法をかけたのも私なのだ。
彼がまともに歩ける状態ではないことは、私が一番よく知っている。
たぶんもう――痛み止めの魔法が、完全に切れているだろうことも。
「ヨラン。でも、その足じゃ――――」
「エレノア・クラディール」
だけどヨランは、私に最後まで言わせない。
口にしかけた私の言葉を遮ると、彼は一瞬だけ私に視線を向け――。
ほんのわずかに、口の端を曲げて見せた。
「お前には今、俺が『助けてほしそうな顔』をしているように見えるか?」
その、不敵とも言える表情に、私はぐっと言葉を呑む。
引き留める言葉は、それ以上口にできなかった。
――…………見えないわ。
今の彼は、もう助けてほしそうには見えない。
再び前を向く視線は強く、迷いない。
この場に一人で残ることも、痛む足のことも――きっと、その先のことも覚悟の上なのだ。
その上で、私を逃がそうとしてくれているのだ。
――だったら。
ヨランの重たい覚悟に、私は震える唇を噛む。
竦んだ足に力を込め、弱気な顔を思い切りしかめる。
それから、怯えを呑み込むように、大きく大きく息を吸い――――。
――私が迷っている暇は、ない!!!
吸い込んだ息を思いきり吐き出した。
「ああああああああ!! もう!! わかったわよ!!!!」
法廷に、場違いなまでに荒い私の声が響き渡る。
兵や神官たちの視線が一気に集まるが、気にしてはいられない。
私は背を向けるヨランに指を突きつけ、諦め悪く叫んだ。
「すぐに助けを呼んでくるから、絶対にそこで待ってなさいよ! 絶対に!!!!」
それだけ言い捨てると、あとはもう振り返らない。
ヨランにも兵たちにも背を向けて、一心不乱に扉へと走り出す。
こんなところで終わらせてなんてやるものか!
私も! ヨランも!!
背後で誰かが「待て」と叫ぶけど、もちろん待つはずがない。
神官たちが散々怒鳴りつける声も聞かない。
少し遅れて響く剣戟の音も、気にはなるけど振り向かない。
――神様。
扉まではそう遠くない。
遠くないけれど、やたらと遠く感じる。
増していく怒声と剣を打ち鳴らす音に、竦むものかと唇を噛む。
――神様……!
近づいてくる扉へ、私は必死に手を伸ばす。
大丈夫、助かる。助けられる。
あと――――もう少し。
――――神様!!!!
伸ばした手が、扉の取っ手を掴んだ瞬間、嫌な予感がした。
見張りの兵の気配ではない。もっとずっと、絶望的なものだ。
手のひらに感じる、引きずり込むような暗闇の気配。
扉越しに伝わる冷たい予感は、開いた瞬間に確信に変わる。
――…………あ。
扉の外に広がるのは、闇だった。
回廊は見えない。燭台のほのかな光すらもない。
ただ、暗闇だけが泥のように蠢いている。
――――穢れ。
扉の外を覆い尽くす穢れに、私はよろりと足を引く。
足に力が入らなかった。取っ手を握る手が震えていた。
もう、怒声も剣戟の音も耳に入ってはこなかった。
――こんなところで……。
終わりたくない。終わらせるもんか。
その感情さえも、今はどこか遠い。
奮い立たせたはずの心が、暗い絶望に塗り替えられていく。
目の前で、どろりと穢れが大きく蠢く。
私を呑み込もうとでも言うように、扉の外から大きく大きく伸びてくる。
――――逃げられない。
伸びあがる穢れの影が、私を覆い尽くす。
今にも落ちてきそうな穢れの下。
最後の最後に思い浮かべるのは――――やっぱり、彼のことだった。
「…………神様」
穢れが濁流のように落ちてくる。
目の前が、真っ暗になる――――。
その、寸前。
「はい」
聞こえたのは、場違いなくらいに穏やかな声だった。
やわらかで、おっとりとして、妙にぽやぽやなその声と同時に――――。
「遅くなってしまい、すみませんでした。――エレノアさん」
暗闇を掻き消す、まばゆい光があふれた。
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