3話 ※ヨラン視点

 両手をきつく握りしめる。

 ためらう足に力を込める。

 奥歯を噛んで顔を上げ、ヨランは天上の神の座を目に映す。


 神の座に立つのは、偉大なる最高神グランヴェリテと、その聖女アマルダだ。

 あやまつことのない、正しさの象徴。人々を守り、国を守ってきた善の化身。圧倒的な力を持つ神々の王と、その伴侶。

 これまでヨランが信奉し、絶対の正義として剣を捧げてきた相手だった。


「アマルダ様」


 震える心を呑み、口にした声は静かだった。

 抑揚は薄く、押し殺したようにかすれていて、自分でも思いがけないほど低い。


「裁判を止めることはできませんか」

「ヨラン……?」


 神の座で、アマルダが驚いたように目を見開く。

 周囲では嘲笑が止み、代わりにかすかなざわめきが起きていた。


 だけどざわめきには振り返らない。

 ヨランの目はアマルダを捉えたまま、覚悟を込めて瞬いた。


「エレノア・クラディールと穢れの関連について、一度調べ直すべきだと思います。今ここで、早急に結論を出すべきではありません」


 聞こえるざわめきが大きくなる。

 法廷中の視線が自分に向けられていることを、ヨランは感じていた。


 無数の視線は、どれも優しいものではない。

 眉をひそめる神官たち。いぶかしむ神殿兵の仲間たち。

 驚愕は疑念に変わり――すぐに、哀れみへと移り変わる。


 なにを哀れまれているかは、ヨラン自身でもわかっていた。


「…………ヨラン。あなた、騙されているわ」


 ヨランを見つめていたアマルダが、悲しげ目を伏せる。

 ため息とともに首を振れば、柔らかな亜麻色の髪まで苦しそうに揺れた。


「見捨てなかったんじゃない。それがノアちゃんの作戦なの。ヨランを味方につけるための罠なのよ」

「そうかもしれません」


 言い聞かせるようなアマルダの言葉を、ヨランは否定しない。

 罠かもしれない。嘘かもしれない。

 この腕の下で成り行きに戸惑っているエレノアに、今のヨランは騙されているのかもしれない。


 ――そうだとして。


 それでもヨランは、天上のアマルダを見据え続ける。


「罠だとしても、本当に罠かどうかを確認する必要があります。裁判を止めることが難しくとも、一度仕切り直しをすることはできませんか」

「確認なんて……」


 視線の先では、アマルダが傷ついたようによろりと足を引く。

 青い瞳が驚きに見開かれ、それからすぐに悲しみに塗り替えられた。


 嘆きを含んだ瞳が潤みだす。

 目の端に涙が滲み、こらえきれずにこぼれ落ちる。

 はっと心を掴むほどに美しい、聖女の涙だ。


「ヨラン……お願い、騙されないで。仕切り直しなんてしたら、その間にノアちゃんの穢れがもっとたくさんの人を傷つけるのよ……!」

「アマルダ様」

「そんなことさせられないわ! ノアちゃんのせいで誰かが傷ついているのに、それを見逃すなんて!!」


 悲痛な声が法廷にこだまする。

 誰かのために心から嘆く聖女に、人々が息を呑む。


 アマルダの言葉に、嘘は少しも感じられない。

 流す涙は清らかで、ヨランを見つめる目は澄んでいた。


「ヨラン、わかって……! すべてはノアちゃんの偽りなのよ!!」


 声は魂に訴えかけるようだ。

 聞いているだけで苦しくなるその響きに――ヨランは握った拳に力を込める。


 ――そう、だったとして。


「アマルダ様、せめてこの状況が落ち着くまでは、待つことはできませんか」

「聞いて、ヨラン! 私を信じて! ノアちゃんに騙されないで!」

「穢れに追われた者たちが無事に逃げ終えるまで、待つことはできませんか」

「ヨラン! それは全部、ノアちゃんの演技なのよ!!」

「――――演技だったとして!!」


 握りしめた手に爪が食い込む。

 食いしばる奥歯から血がにじむ。


 見開いた目で頭上を見上げ、ヨランは荒く息を吐いた。


 目に映るのは、傷つき、涙を流し、声を振り絞る可憐な姿だ。

 誰かのために嘆く、純粋で心優しい少女。

 うつむいても、必ず『みんなのために』と前を向く、しなやかで強い、慈愛の聖女。


「すべて演技だったとして! だとしたら――あなたはなにをしましたか!!」


 清らかで、穢れを知らず、最高神の寵愛を受けるにふさわしい――。


「王家の兵が命を懸けて俺を助けたときに! 誰かが階下で逃げ遅れた者たちを逃がしているときに!」


 ずっとヨランが憧れてきた、理想の聖女、だった。


「エレノア・クラディールが息を切らせて俺を助けていたときに、あなたはここで、なにをしていましたか!!」

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