2話

 ――ヨラン……?


 ヨランの腕の下で、私はぎくりと身を強張らせた。

 ヨランの力は強い。兵らしい鍛えられた腕に押さえつけられ、私は身じろぎをすることもできなかった。


「……ヨラン、どうしたの?」


 嫌な予感におそるおそる呼び掛けても、ヨランは応えない。

 視線ひとつ、眉一つ動かさない。


「ヨラン、ねえって」


 私は焦るような気持ちで、もう一度ヨランに声をかける。

 見上げる彼の横顔に、だけど表情らしいものは一切浮かばない。

 ただわずかに目を見開き、ゆっくりと瞬き――目を奪われたかのように、アマルダを見つめ続けるばかりだった。


 腕の力だけが、ますます強くなっていく。


「どうしたのよ、ねえ――」

「アマルダ様」


 不安と焦りに声を大きくしても、ヨランには届かない。

 彼は私の言葉を遮ると、たしかめるようにアマルダに問いかけた。


「この裁判で有罪になったら、エレノア・クラディールはどうなりますか」

「…………ノアちゃんは」


 ヨランの問いに、アマルダは反射的に口ごもる。

 口元に手を当て、いかにも悲しげに目を伏せたのは、だけど一瞬のこと。

 すぐに首を横に振ると、彼女は唇を噛んで再び顔を上げた。


「ノアちゃんは――罪人です」


 前を向くアマルダの表情は、見るからに痛ましい。

 眉根をきつく寄せ、苦しさに耐えるように両手を握り合わせ、それでも彼女は、俯くまいと胸を張る。


「ノアちゃんは穢れを生み出し、大勢の人々を傷つけました。この国を混乱に陥れ、もっとも神聖な神殿を穢しました。……許すことのできない、大罪を犯しました」


 アマルダの声は強い。

 大きな声ではないが澄んでいて、凛と法廷に響き渡る。


「ならば私は最高神の聖女として、ノアちゃんを――エレノア・クラディールを許すことはできません。たとえ親友でも――いいえ、親友からこそ、私が間違いを正さないといけないのです」


 そこで言葉を切ると、アマルダは一度、ゆっくりと瞬いた。

 瞬きとともにこぼれるのは、一筋の涙だ。

 こらえきれず頬を伝い落ちる涙に、周囲の兵たちは息を呑む。


「エレノアには、相応しい罰が待っています。私は……それを受け入れなくてはいけません。どんなに辛く、悲しい別れになるとしても」


 漏れ聞こえる感嘆の吐息と視線を受け、アマルダは意を決したように一歩前へと踏み出した。

 涙に濡れた顔は隠さない。唇は硬く引き結び、辛さも悲しみも呑み込んだように、彼女は気丈に前を向く。

 背後にはグランヴェリテ様。胸の前では、祈るように握りあわされた手。

 静かに息を吸い――覚悟を込めて吐き出される言葉。


「正義を曲げるわけにはいかないのです。私は――――最高神の、聖女だから」


 それはまさに、理想の聖女だ。

 物語に描かれるような、気高い聖女そのものだった。


 もっとも――。


 ――なにが『親友』よ。


 親友と呼んだ私に、アマルダの視線が向くことはない。

 一瞥もしないアマルダと、アマルダを讃える人々の視線に、私はきつく両手を握りしめる。


 相応しい罰。別れ。それがなにを意味するかは、私にだってわかる。

 国を揺るがすほどの罪を犯した人間に待つのは、最も重い処罰だ。


 ――要するに、処刑するってことじゃない……!


 明確な恐怖に、体の奥からスッと熱が引いていく。

 そのくせ、焦燥感で額に汗がにじんだ。


 冤罪だと言って、聞いてもらえるはずはない。

 不当な裁判と主張したところで、アマルダも神官たちも絶対に認めないだろう。


 ――逃げないと……!


 だったら、その前にこの場から抜け出さないと。

 そう思って身をよじるけれど、ヨランはやはり動かない。

 魅入られたような横顔だけが、すぐ傍にある。


「ヨラン――」

「ねえ、ヨラン」


 わずかな期待を込めた私の言葉さえ、アマルダの鈴のような声がかき消した。

 アマルダはヨランの真下の私を見もせずに、青い瞳にヨラン一人だけを映した。


「ヨランならわかってくれるでしょう?」


 涙の残る青い瞳が、ヨランを映して瞬く。

 互いの信頼をたしかめるように、ゆっくりと。


「こうするのが正しいことだって。ヨランは間違ったことが嫌いだものね」

「アマルダ様…………」


 アマルダの瞳に、ヨランは呑み込まれたように息を吐く。

 頭上のアマルダを見上げ、信頼に応えるように彼もまた瞬きを返すと――。


「…………アマルダ様。あなたは、俺の理想の聖女です」


 ぽつりと、こぼれるように呟いた。


「優しく、慈悲深く、いつも誰かのために涙を流していらっしゃる。それでいて、決して折れずに前を向かれる。強く、誇り高いお方です」

「まあ、ヨラン……」


 信頼に応えたヨランに、アマルダが嬉しそうに目を細める。

 それからようやく、見つめ合っていた事実に気が付いたらしい。

 慌てて視線を逸らすと、彼女は照れくさそうにはにかんだ。


 そんなアマルダから、ヨランは目を逸らさない。

 彼女の視線が逸れてもなお、まっすぐに見つめ続けていた。


「あなたは、エレノア・クラディールとはまるで違う。ここまでエレノアと同行しましたが、彼女はあなたと違って、とても聖女とは思えない人間でした」

「ヨラン、なにを……」


 思わず声を上げたのは私だ。

 アマルダを讃えて私を貶める言葉に、怒るよりも先に血の気が引いていく。

 肩に回されたヨランの腕が重い。

 どうやっても、もう抜け出せる気がしなかった。


「魔力もない。力もない。清らかさも慈悲深さもない。ガサツで、おまけに口も悪い。聖女どころか、年頃の娘としても眉をひそめたくなるような、かわいげのない女でした」


 ヨランの言葉に、周囲から失笑が漏れる。

 くすくすと響く笑い声に、息が止まりそうだった。

 逃げないと――と思うのに、足に力が入らない。

 顔を上げていられない。


「ヨラン、そんな言い方」


 アマルダもまた、頭上でくすりと苦笑する。

 優しい、慈悲深い聖女の顔でようやく私を目に映し、たしなめるように口を開く――が。


「さすがにノアちゃんがかわいそうよ。いくらノアちゃんが――」

「でも」


 アマルダの言葉を、ヨランは拒むように遮った。

 誰もが笑う中で、ヨランだけは笑っていない。


 燭台の火に揺れるヨランの横顔は変わらない。

 わずかに見開かれた目。ゆっくりとした瞬き。表情の消えた顔。


 アマルダに目を奪われていたのではない。心を掴まれたわけでもない。

 さざめく笑いの中で、ヨランは眉一つしかめず、視線を逸らさず――――。


「エレノア・クラディールは、俺を置いて行きませんでした」


 最初から、どこまでも真剣にアマルダを見据えていた。


「足手まといの俺をエレノアは見捨てませんでした。――いつでも置いて行けたはずなのに、最後まで!」


 ヨランの腕に力が込められる。

 その腕の先。彼の手が、覚悟を決めたように固く握りしめられていた。

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