15話 ※神様視点
冷たい。
彼の心の中は、ひどく冷たかった。
――――愚かな。
指の先が熱を失う。
水を差したように、頭の奥は冷え切っていた。
無情な金の瞳は、剣を突きつける人間たちを無感動に映し出す。
切っ先を向けられても、怒りも嘆きも浮かばなかった。
彼の心を満たすのは、ただ凪いだような諦念だけだ。
――あまりにも、愚かな。
「――――馬鹿馬鹿しい。そんなことでこの先を通すと思ったのか?」
エレノアを探して建物中を駆け回り、ようやくたどり着いた大扉の前。
一人の人間が、彼に剣を突きつけながら嘲笑った。
「貴様の狙いが、裁判をうやむやにすることだとはわかっている。くだらない嘘に騙されると思うな」
姿からして、神殿の兵だろう。他にも同じ格好の人間が数人いて、同じように剣を抜いている。
目の前に立ちふさがる人間たちの視線は、すべて彼に向かっている。
神を畏れる様子はない。顔に浮かぶのは、嘲りと警戒の混じった色だ。
「なにが『この先に穢れの原因がある』だ。嘘にしたってもっとまともなものがあるだろう。――この先にはグランヴェリテ様がいらっしゃるんだ。穢れなど、ひとかけらたりとも入ることはできないだろうに」
嗤い声が闇に消えていく。
大扉の周囲は暗い。ここだけ特に影が濃く、蝋燭の火も数歩先までしか届かなかった。
その影の奥には、蠢く闇が見える。
騒ぎに反応したのか、あるいは扉の奥に引き付けられたのか。回廊の奥から穢れがにじり寄っていることに、兵たちは気付いていなかった。
「『ここは危険だ』だと? 『後ろから穢れが近づいてきている』だと? ふん、そんな子供だましに引っかかると思うか。浅知恵にもほどがある」
「…………」
「我々にはグランヴェリテ様がついている。最高神様がいるんだぞ? だというのに、無能神の言葉など誰が信じると思う?」
人間たちの馬鹿にした言葉に、金の瞳はわずかも揺らがない。
怒りもなく、嘆きもなく、それ以上の言葉が彼の口から出ることもない。
燭台のほのかな光の下、彼の表情を見た兵の数人が、小さく息を呑む音が響いた。
「……俺の言葉でも信じられないか」
彼に代わって口を開いたのは、建物を巡るうちに合流したアドラシオンだ。
アドラシオンは彼を一瞥すると、人間を守るように一歩前に出る。
「穢れの原因がこの先にある。剣を収め、俺たちを通せ。お前たち自身のためにも」
「アドラシオン様……」
序列二位の神を前に、兵たちは身を強張らせた。
わずかなざわめきが起き、ためらうように兵同士で視線を交わす――が、それも一瞬のことだ。
続く言葉に、すぐにざわめきは消え去った。
「……残念です。建国神ともあろうあなたが、人間を裏切るなんて」
「なに?」
「裁判を続けることは、あなたの敬愛する兄君――グランヴェリテ様のご意向。この国を守り続けてきた、最高神たるお方の望みなのです。それを邪魔することが、裏切りではなくなんと言うのでしょう」
アドラシオンが頬を引きつらせる。
彼にしては珍しい、あらわな苛立ちを見せるが、兵たちは引き下がらない。
かえって士気を高めた様子で、兵たちは声を大きくした。
「あなたは兄君の意思を守るどころか、王家の兵なぞを引き連れて踏みにじりに来たのです。いかにアドラシオン様と言えど、見過ごすことはできません! 我々は最高神グランヴェリテ様とその聖女アマルダ様のため、ここであなたの足止めをいたします!」
その言葉を合図に、兵たちは剣を握り直す。
蠢く闇を背に、熱を持った声ばかりを張り上げる。
「我々は神と聖女のために命を捧げる身。無能神がいかに穢れを操ろうと、恐れはしない! 通りたくば力ずくで押し通れ!」
興奮した兵の声に、雄たけびの声。
神のためと訴え、立ちふさがる人間たちの姿は――しかし、無私とは程遠い。
彼の目には、闇に蠢く穢れではない、また別の穢れが見えていた。
最高神に仕える優越感。勇ましさを演じる虚栄心。忠義に対する見返りへの期待。
認められたい、褒められたい、蹴落としたい、出し抜きたい、自分だけが、自分だけが、自分だけが――。
――ああ。
こんなときにさえ、人間たちは穢れた感情を失わない。
影よりもなお暗い感情を抱え、正義を吐く人間たちに、彼の心はどこまでも冷めていく。
――――――人間は、なんと醜い。
それは、どれほどエレノアと接しても消すことのできなかった、彼の本心だった。
(7章(中)終わり)
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