9話 ※ヨラン視点

 踏み出した足音が暗闇に響く。

 二人分の重さを受けたその音は、ひどく重たげだった。


 細い体に支えられた歩みは頼りない。

 痛み止めの魔法を受けても足の痛みは消えず、歩くたびに染みるような痛みが走った。


「オルガは――――」


 その痛みを感じながら、ヨランは彼自身でも無意識のうちに、ぽつりと呟いていた。


「いい奴だったんだ」

「……さっきも聞いたわよ、それ」


 エレノアが眉間にしわを寄せ、ちらりとヨランを見上げる。

 だけどヨランは振り向かなかった。

 視線を床に落とし、独り言のように繰り返す。


「本当に、いい奴だったんだ」

「…………」

「もともとは俺の家の使用人で、幼なじみだった。小さなころから、あいつは俺の従者で――――」




 たぶん、世間から見たら、オルガはヨランの引き立て役だった。


 ヨランは騎士爵を持つ家の次男で、剣の才能に恵まれ、容姿も優れていた。頭も要領も良く、社交的で友人も多かった。

 仲間外れや弱い者いじめは嫌いだった。そのせいか、幼いころからよく喧嘩の仲裁をしていたものだ。

 悪人を許せず、誤魔化しや嘘を嫌う彼を、周囲の人々はいつも正義漢だともてはやした。

 身分も才能も持ち合わせ、強く優しく、分け隔てない。憧れられる人間だった自負がある。


 オルガは、そんな彼に仕える使用人だった。

 親の代からヨランの家に仕える平民で、年頃が近いからと遊び相手に差し出されなければ、きっとヨランと親しくなることはなかっただろう。

 体は大きく力こそ強いが、剣の腕は人並み。少し鈍いところがあり、容姿も良いとは言えない。

 ヨランとオルガが並ぶと、周囲から向けられる視線の差をありありと感じた。


 手を切るように、と何度も勧められてきた。

 同情で付き合うな、お前は優しすぎる、オルガとは釣り合わない――と。

 親、兄弟、友人に、オルガ自身からさえも。


『もう、俺とつるむのはやめろよ、ヨラン』


 人のよさそうな顔を歪ませて、彼は何度となくヨランに忠告した。


『わかっているんだろう? 俺みたいな奴が友達だから、アマルダ様の護衛に選ばれなかったってこと』


 いいや、わかっていない。

 なにもわかっていない。


 ――逆だ。


 ずっと、憧れているのはヨランだった。

 本当に優しくて、正しいのはオルガの方だった。




 昔から、喧嘩は見るたびに仲裁していた。

 殴り合いの喧嘩なら単純だった。両方ともヨランが叩き伏せればいいだけなのだから。


 でも、あのときは違った。

 まだヨランが十二、三のころ。争っていたのは、ぬいぐるみを取られたと泣く少女と、むっつりと黙ってぬいぐるみを抱えるもう一人の少女だった。

 少女趣味の華やかなぬいぐるみは、泣いている少女にぴったりだった。元は自分のものだった、いきなり取られたと言ってしくしくと泣く姿は、見るからに被害者だった。

 もう一人はなにも言わない。口をつぐんだまま、不機嫌そうにしているだけ。着ている服は質素で、華やかなぬいぐるみは似合わない。

 騒ぎを聞いて集まった人々も、みんな泣いている少女の味方をしていた。

 かわいそうな少女を慰め、むっつりと口をつぐむ少女を非難した。


 仲裁に入ったヨランもまた、当たり前のように泣いている少女にぬいぐるみを返した。

 少女は笑みを取り戻して、それで終わり。そのはずだった。


 オルガが二人から話を聞き出し、本当の持ち主である不機嫌な少女にぬいぐるみを返したと聞いたのは、それから少し後のことだ。




「――――オルガは、俺の引き立て役なんかじゃない」


 静かな声が、静かな回廊に反響する。

 ヨランはうつむいたまま、こみ上げる言葉を吐かずにはいられなかった。


「あいつはいつも正しかった。本当に優しい男だった」


 正しいことを、正しいと判断できる男だった。

 自分の目で見て、聞いて、本当のことを見つけられる。

 誰かに判断をゆだねない、自分の『正しさ』を持っている人間だった。


「立派な奴だった。羨ましかった。あんなふうになりたかった、ずっと」


 正義漢というのなら、オルガのことを言うのだろう。

 優しくて、努力家で、間違ったことが大嫌いで――。


 ヨランのために、迷わず穢れの前に飛び込むくらいに友達思いで。


「ずっと――――オルガは俺の憧れだったんだ」


 吐き出す言葉は震えていた。

 伏せた目は、今はほとんど何も見えない。ぼやけた視界に映るのは、胸元で揺れる二つの徽章くらいだ。

 エレノアは振り返らない。前を向いたまま、ヨランの顔を見ないようにしてくれていた。


「…………うん」


 ヨランの憧れも、否定することはなかった。


「きっと会えるわよ、また」




 カチンと、胸元で徽章がぶつかる音がする。


 オルガのようになりたかった。正しくありたかった。

 だけどヨランには、オルガのように正しさを判断することはできなかった。

 泣いている方がかわいそうだと、弱い方が虐げられていると、みんなが正しいと思う方が正しいと思ってしまう。


 それでも、正しいもののために剣をふるいたかった。


 だからヨランは、神殿兵になることを選んだのだ。

 神のためであれば間違うことはない。

 最高神の言うことなら。最高神の聖女のためならば。


 神の兵であることは誇りだった。

 胸の徽章は正しさの証明だった。


 でも、今は――――。


 その徽章が、少しくすんで見えた。

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