8話

 そういうわけで、私はヨランを肩に支えながら、再び暗い回廊を歩いていた。

 痛み止めの魔法が効いたのか、あるいはヨランの心境の変化か、肩にかかる負担は前よりも軽い。

 ヨランの道案内のおかげで道に迷うこともなく、幸いにも穢れと出くわすこともなく、目的地までの道のりは順調だった。

 ただし――。


「――安全な場所を知っていたのなら、どうして黙っていたのよ! 無駄に逃げ回る羽目になったじゃない!」

「うるさいうるさい! 言えるわけがないだろう! お前は穢れをばらまいた罪人だぞ!?」

「それ、冤罪だって何回も言ってるでしょう!」


『こう』なってしまうのだけはどうしようもない。

 ほのかな燭台の火が揺れる静寂の回廊に、私とヨランの言い争う声が、場違いにも騒がしく響き渡る。


「冤罪でなかったらどうする! 言っただろう、他に生き残った者が逃げ込んでいるかもしれないと!」

「それがどうしたのよ! 一緒にいてもいいじゃない!?」


 むしろ逃げた人がいるのなら、ばらばらでいるより一緒にいた方がいいくらいだ。

 私ひとりが増えてもなんの役にも立たないけど、人が多いのはそれだけでも安心する。

 私の方としても、ヨランと二人きりよりは、他の誰かにいてほしかった。


 そう思う私に、ヨランが『冗談じゃない』という顔をする。

 肩に支えられているくせに、相変わらずの図々しさである。


「いいわけがあるか! 生き残りをわざわざ危険に晒すわけにはいかん!」

「危険ってどういう意味よ! 私がいたって、別に危ないことなんて――」


 ない、と反射的に言い返そうとして、はたと私は口をつぐんだ。

 ヨランの言う危険が『どういう意味』なのか、やっと気が付いたのだ。


 誤解であるのはさておいて、彼にとっての私は穢れをばらまいた犯人。今のこの状況の元凶であり、多くの人々を穢れの餌食にした極悪人である。


 そんな人間が、生き残りを見つけたらどうするだろう。

 安全な場所へ連れて行ったら、どうなるだろう。


 もしも私が本当に犯人だとしたら――生き残りは格好の餌食だ。

 安全な場所なんて、真っ先に潰そうとするに決まっている。


「…………逃げた人を守ろうとしたのね。階段は駄目だってわかってたくせに……!」


 だから――――あのときのヨランは、私以上に絶望していたのだ。

 階下へ向かう道はない。足は動かず、私がいなければ移動もままならない。

 だけど、私を連れて『安全な場所』へ逃げる選択も、彼は取ることができなかった。


 いるかもわからない逃げた人々のために、彼はあの場所で諦めることを選んだのだ。


「ああもう! どうして、そういうところは覚悟が決まっているのよ……!」


 理由を知ってしまうと、ヨランの判断も責められない。

 これが誤解でさえなければ、むしろ私だって立派だと褒めたたえるところだろう。

 もちろん誤解だから大問題ではあるのだけど――少なくとも、今の私は言い返すべき言葉を失くしてしまった。


「…………いや」


 怒りの行き場がなく、むっと苦い顔で口をつぐむ私に、しかしヨランは首を横に振る。

 短い否定の声に顔を上げれば、彼もまた私に視線を向けていた。


「そんな大層な覚悟をしたわけじゃない」


 一度だけ私を目に映すと、ヨランはすぐにまた前を向く。

 いぶかしむ私の顔は、もう見えてはいないのだろう。

 暗闇に向かう彼の横顔は無表情で、口元だけが、笑うでもなく歪められていた。


「俺よりも、逃げ延びた者たちの方が生き残るべきだと思っただけだ」

「…………ヨラン?」

「その方が、俺が生きるより価値がある。……オルガだってそうだった」


 吐き出される声は低く、静かで、淡々としていた。

 なのに、先ほどまでの言い争いのときよりも、ずっと強く暗闇に響く。


「オルガは、俺よりもずっと立派な男だ。いい奴だったんだ。あんな場所で、死んでいい人間じゃなかった」


 ヨランの横顔を、淡い燭台の光が舐める。

 ゆっくりと瞬く彼の瞳は、燭台の火に揺れていた。

 ひとつ、ふたつと瞬きを重ねるほどに、その揺れが大きくなる。


「俺を庇うべきじゃなかった。………………あいつが生きているべきだったんだ」


 絞り出す声は震えていた。

 呼吸は荒く、かすかに熱を持っている。


 繰り返す瞬きは重たげだった。

 濡れた瞳に映る火は、いっそう大きく揺れて見えた。




「…………まだ、そうと決まったわけじゃないじゃない」


 私はヨランから目を逸らすと、少し迷ってからそう言った。

 余計なお世話とは思いつつ、それでも言わずにはいられなかった。


「だって、ちゃんと確認したわけじゃないでしょう? それなら、生きているかもしれないじゃない」


 口にしたのは本心だ。

 オルガはたしかに穢れに呑まれたけれど、その後のことはわからない。

 私たちが生き残っているのなら、彼だって同じ状況かもしれない。

 彼の方こそ、ヨランのことを探している。そんな可能性も、きっとあるはずだ。


「生きている……?」


 そう思う私に、ヨランはハッと鼻を鳴らした。

 冷たく乾いたその音は、笑い声などではもちろんない。

 どこか自嘲めいた、怒りを吐く音だった。


「どうしてそんなことが言える。オルガは、俺の目の前で消えたんだぞ……!」

「それは……」

「――なにが『生きているかもしれない』だ」


 言い返せない私に、ヨランは短く吐き捨てる。

 突き放すような声は、だけど少しも覇気がない。

 かすれて震えていて、今にも崩れ落ちそうな響きがある。


「適当なことを言うな。無責任なことを。お前になにがわかる……!」


 肩に回されたヨランの腕に力がこもる。

 締め付けるような力は強くて、痛い。

 それでいて――――。


「お前に、なにがわかるって言うんだ…………!!」


 ひどく頼りない。

 寄る辺を探して、縋りつこうとしているようにも思えた。


「…………わかんないわよ」


 私はヨランを一瞥すると、小さく頭を振った。

 オルガが無事であるかどうかは、私にはわからない。

 ヨランの気持ちも、彼とオルガの仲も、オルガが呑まれる時にヨランがなにを見たのかも知らない。


「わかんないけど」


 私の言ったことは無責任で適当なことだったかもしれない。

 今のヨランを見て、なにか言わないとと口にした、他人事の慰めなのかもしれない。


「だけど――――生きていてほしいじゃない」


 それでもやっぱり、私は黙ってはいられなかっただろう。

 ヨランにとっては無責任な言葉でも、私には本心だった。


「無事でいてほしいじゃない。このまま終わりなんて嫌じゃない。生きて、再会したいじゃない。それで――」


 私は一つ、大きく息を吸う。

 歩き疲れた体に力を込めると、縋りつくヨランの腕を、逆にこちらから掴み返した。

 ヨランが驚いたように身じろぎをするが、振り返らない。

 視線を前に向け、私は暗闇の先を睨みつける。


「それで、もしもオルガが本当に生きていたとして――――それを確認するためには、私たちも生きていなくちゃ駄目なのよ」


 それから「ふん!」と勢いよく鼻息を吐くと、崩れ落ちそうなヨランの体を支えて、回廊の奥へと大きく足を踏み出した。

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