7話

「………………」


 徽章を握りしめたまま、ヨランは重たげに頭を振る。

 それから浅く息を吸い、吐き、もう一度吸うと――不意に彼は、押し殺したような声を吐き出した。


「………………階段は、駄目だ」

「はい?」


 階段は駄目?


 どういう意味かと訝しむ私に、ヨランは重たげな頭を持ち上げる。

 そのまま、まっすぐに私を見据える目つきは鋭い。これまで散々睨まれてきたというのに、思わずたじろいでしまうほどだ。

 だけど、その視線に宿る感情はわからない。

 眉根を寄せた表情は、怒っているようでいて――少し違うようにも見えた。


「階段への道は、すべて穢れにふさがれていた。ここへ来るまでに確認している。今の状況で、階下に降りる道はない」

「は? え? ……確認?」


 その表情で口にする言葉は、さらにわからなかった。

 私は混乱しつつ、慌てて制止の声を上げる。


「待って待って、降りる道はないってどういう――」

「だが――――…………だが、他に手段がないわけでもない。お前の言う助けが、本当に来るというのなら」


 しかし、ヨランは私の声など聞きもしない。

 苦々しそうに私を睨みつけたまま、奇妙なくらいに淡々と言葉を吐き続ける。


「兵たちには事前に、所内の構造は伝えられている。いざという時どう動くべきか、どこに逃げるべきか。……この階層に、比較的安全な場所がある。少し離れているが、道はふさがれていなかった」

「…………は」


 ぱちりと、私は一つ大きく瞬きをした。

 ヨランの表情は変わらない。怒ったように険しく、目つきは私を射殺さんばかりだ。

 眉間の皴は、いっそ先ほどよりも深くなっているようにさえ思えた。


 だけど――。


「案内してやる。そこまで行けば、助けを待つことくらいはできるだろう。……他に生き残った者いれば、そこで合流できるかもしれない。少なくとも、階段を探し回るよりは危険はないはずだ」


 それが怒りの表情でないことは、今度は私にもはっきりとわかった。


 暗闇の中でヨランの瞳が揺れる。

 その視線は、私を見ているようで見ていない。

 射抜くような視線が見据えるのは――たぶん私ではなく、彼自身の迷いだ。

 彼にとっては大罪人である私に、手を貸すことへの迷い。ためらい。疑惑と――。


 それらをすべて呑み込み、協力しようという、覚悟だ。


「……お前を信用したわけじゃない」


 絞り出すような声で言うと、彼はオルガの徽章を自分の徽章のすぐ下に刺した。

 カチン、と徽章同士の当たる鈍い音が一度響き、長い尾を引いて消えていく。

 その音に耳を澄ませ、ヨランは迷いを振り切るかのように目を閉じた。


「ただ――――今の状況を切り抜けるには、こうする他にない。俺がここで死んで、オルガの行為を無駄にするわけにはいかない。…………それだけだ」


 それだけ――だとしても。

 それは頑なだったヨランの、たしかな変化だった。




 が。


 しかし待て。


「いいか、お前への疑惑は晴れていない。勘違いするなよ。怪しい真似をすればすぐにでも――」


 ヨランはきつい口調で言いながら再び目を開け――開けたところで、言葉を止めた。

 彼が見たのは、当然ながら目の前の私である。

 先ほどまでは、見ているようで見ていなかった私の姿である。


 ヨランの告白を聞いた、私の本当の反応なのである。


「……おい?」


 と呼び掛けられても、私は答えない。

 代わりに口から、短く「は」の声が漏れる。


「『は』?」

「は、は、はははは――――」


 訝しむヨランに、私は「は」を繰り返す。

 もちろんのこと、笑っているわけではない。

 笑えるはずはなかった。


「は――――――」


 ヨランの目の前。私は彼の告白を聞いた時からずっと、目を見開いたままぴくりとも動いていなかった。

 体は凍りつき、口は呆けたように開き、もしかしたら白目を剥いてさえいたかもしれない。


 ヨランの変化を喜ぶなんてもってのほか。

 わななく口で大きく息を吸い込むと、私は心の底から叫んだ。


「早く言え――――――!!!!!!」


 そっちの迷いも覚悟も知ったことではない。

 こっちは命がかかっているのだ!

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