3話

「…………離せ」


 回廊は暗い。燭台の火こそあるけれど、ほとんど意味をなしていない。

 光は回廊に潜む影に吸われて、周囲をほんのり照らすだけだ。


「離せ。貴様、いったいなんの真似だ」


 回廊は静かだ。

 兵のおかげで逃げ出してからは、魔法の音も気配もない。

 ただ、ときおり階下から、誰かが逃げるような足音と声が途切れ途切れに聞こえていた。


 そんな静寂の回廊に響くのは――。


「聞いているのか! 離せと言っている!」

「うっさいわね! 一人で歩けないくせに文句言ってんじゃないわよ!!」


 ヨランの文句ばかりだ。聞いていて気が滅入ってくる。


「助けられてるんだから、もっと殊勝な態度を取りなさいよ! 私がいなかったら、あなたなんて今ごろ穢れの下よ!?」


 そう言いながらも、私は足に力を込める。

 踏み出す足が重いのも当然。今の私の肩には、大の男が寄りかかっているのだ。


「こっちは重い体を支えているってのに! ああもう! こんなことなら見捨てて逃げればよかったわ!」

「しらじらしい……!」


 ヨランは片足を引きずりながらも、憎々しげに私を睨みつける。

 幸い――と言うべきかどうなのか。ヨランの足は完全に使い物にならないわけではないらしい。

 支えられれば歩くことはできる程度の怪我なので、どうにかこうにか、こうして二人で逃げることができていた。


 ――というか! さすがに歩けない怪我なら本気で見捨ててたわよ!


 もちろんのこと、最優先は私の身の安全である。

 いっそ、もっとどうにもならない怪我なら置いて行けたのに――なんて、邪悪な恨み言はさておいて。


 助けられるとわかってしまった以上、放って一人で逃げるのも後味が悪い。

 そういうわけで、現在の私はヨランの腕を肩に担ぎ、ヒイヒイ言いながら歩いているわけである。


 もっとも、ヨランがそのことに感謝しているかどうかと言えば、別の話だ。


「そもそも、穢れをばらまいたのは貴様だろう! くだらん演技で、恩を着せるつもりか!」

「演技だったらこんな必死に逃げてないわよ!」

「それを演技だと言うのだ!!」

「名演技にもほどがあるわ! こんな演技できるなら、聖女辞めて女優になるわよ!!」


 けっ! と荒々しく吐き捨て、私は視線を前に向ける。

 ヨランが横でまだごちゃごちゃ言っているが、半分も聞いていない。

 不機嫌な顔で私が睨むのは、どこまでも続く回廊の奥だ。


「いいから、文句ばっかり言ってないであなたも階段を探しなさいよ! あの人が言っていたでしょう、下に逃げろって!」


 入り口にいたはずなのに、どうして『下』なんてものがあるのか――なんてことは、今は考えても仕方がない。

 たぶん穢れに呑まれたときにでも、ここまで流されてしまったのだろう。


 ――壁から飛び出してくるくらいだもの。天井をすり抜けることだってできてもおかしくないわ。


 それでまあ、たぶん何かしらの事情で、途中で穢れに吐き出されてしまったのだ。

 よほど呑み心地が悪かったのか、あるいは相当不味かったのか。なんにしても、吐き出してくれたことは幸運である。


 ――吐き出してくれたこと『だけ』は、ね!


 要するに、入り口から離れた私たちは、何階のどこにいるかもわからないということだ。

 窓を見ても、外は真っ暗で景色ひとつ見えない。

 燭台はびっくりするほど役立たずで、回廊の先を見通すどころか、足元さえも危うい始末。

 見取り図なんてものはもちろんない。回廊に並ぶのは、見分けのつかない同じ形の扉ばかり。

 おまけに、裁判所内はやたらと広い。下を目指せと言われたところで、階段がある場所なんて見当すらもつかなかった。


 こうなってしまえば、頼りになるのはむしろヨランの方だ。

 裁判所内に私を連行する役目だった以上、彼は中の構造も知っているはず。

 少なくとも、見取り図くらいは見たことがあるだろう――。


 なんて期待は、するだけ無駄だということを、私はこの短い間に思い知っていた。


「誰が、貴様なんぞの言うことを聞くか! 下に逃げるふりをして、またなにか企んでいるのだろう!」

「企む余裕なんてあるわけないでしょーが!!」

「余裕がないだと? 穢れは貴様の手下だろう! つまらん嘘を吐くな!」

「あーあーあー! もう勝手に言ってなさい! ――ああ、ほら! あの先、曲がれるわ!」


 ヨランの言葉を聞き流し、私は回廊の変化を口にする。

 視線の先。暗い回廊に等間隔に並ぶ燭台が、不自然に途切れている。ああいう場合、たいてい途切れた場所に横道があった。

 そのほとんどは、いかにも通用路らしい、狭い道だったけれど――。


「けっこう広いわ。それに、手すりみたいなのが見えない? あれって、もしかして階段じゃ――――」


 ないかしら。

 とは言えなかった。


 階段であるという期待は、次の瞬間――ぬるりと横道から現れる黒い影に打ち砕かれる。

 思わず足を止めた私たちの目の前。回廊をふさぐほど巨大な影は、横道から顔を覗かせ、どちらに行こうか迷うように体を震わせる。

 その、重たげな体がぴたりと止まり――まっすぐに私たちの居る方向を向いたのと、私たちが悲鳴を上げたのは同時だ。


「ギャ――――――!!!!」


 腹の底から情けない悲鳴を吐き出すと、私たちは体の向きを変え、一目散に逃げだした。

 穢れが現われたとき、一瞬――一瞬だけ、下に続く階段が見えた気がした、けど!


 ――それどころじゃないわ!!


 背後から、ぺたぺたと穢れの這う音が近づいてきている!!

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